第16話

翌日、ヴィーデはアーデンを連れて魔導兵保管倉庫のリベルタの元へと向かった。
うずくまってうとうととしていたリベルタは物音で目を覚まし、ヴィーデの姿を見つけるとすぐに立ち上がってクワアと鳴いた。
持ってきた野菜を差し出すと勢いよく啄んでいる。元気なその姿にホッと胸を撫で下ろした。

「調子良さそう。一時はどうなるかと思ったよリベルタ」
「しっかし…凄い技術だねこれ。遠目に見たら本物のチョコボの脚そのものだわ」
「でしょう?もともと車や武器の改造を得意にしてるっていうお爺さんが治してくれたの」
「…ほー…ルシスの技術者もあなどれないな」

顔を近づけて見てみると、大関節から脚の指先の小さな関節まで全て動くようになっている。
金属で出来ているはずなのにそれ特有の音は一切せず静かなものだった。リベルタが義足だと気が付いているかどうかも怪しいほど違和感なく存在している。

「ま、何にせよリベルタの脚が無くならなくて良かったね…ところでさ」
「うん?」
「君、グリフォンに襲われたって言ってたけどよく逃げ切れたよね。脚を怪我したリベルタ連れて上空から襲ってくる敵と戦うのは難しいだろ?」
「……あぁー…う、うん…そうね…」 
「まさか倒せたわけはないだろ?」

そう言うと、ヴィーデは無言で頷いた。

「その時ね、たまたま近くにハンターがいて…彼らが助けてくれたの。そしてそのうちの一人が、この子を治してくれたお爺さんを紹介してくれて…」
「たまたま?」
「た…たまたま…?っていうか、その前の日に釣りを教えてくれたんだけど…」
「…ヴィーデ…分かるように話して」

アーデンの目が細くなっている。こういう時は話を濁さずに正直に告げた方がいいと学んでいた。
ヴィーデはニフルハイムを飛び立った当日に4人組の男達と出会い一緒に釣りをし、果ては共にキャンプをしながら一夜を明かしたことを話した。
アーデンの眉間に深い皺が寄っている。

「お別れしようと思った時に、急に上空にグリフォンが現れたのね……」
「……よく初対面の男とキャンプできるよね…しかも相手4人」
「でも、いい人達だったよ本当に…!直観で分かったもの」

ヴィーデが反論すると、それを裏切るのが男なのだとアーデンが言う。

「それにさ、黒チョコボの飛行速度は速いはずだろ。もう少し早く戻ってこられたと思うんだけど」
「うーん…どうもこの子、まだ上手く飛べないみたいなの。もう少し大きくなったら上達するかしら」
「…黒チョコボは幼くても飛ぶのは上手いよ?ヴィーデのハーネスさばきが下手なんじゃないかな」
「…そ…そんなことないけど…!」
「だってさ、あの日もリベルタをコントロールできずにここを飛び出しちゃったわけだろ?」
「……ん……」

ぐうの音も出ない。けれど黒チョコボに乗っている人間を他に知らないのだから覚えようがないとヴィーデは唇を尖らせた。

「ねえヴィーデ、今度オレと休み合わせようか」
「アーデンと?」
「オレの黒チョコボの乗りこなし見せてあげよう。それで感覚掴むといいよ」
「本当?教えてくれるの?」
「二人乗り用の鞍も用意しておくから。一緒に走ってみよう」
「アーデンと一緒に乗るの?楽しそう!」

こういう時に見せるヴィーデの笑顔は本当に愛らしい。普段から頻繁に声を出して笑うタイプではない分、この貴重な笑顔はアーデンにとって褒美のようなものだった。

「オレはしばらく忙しくなるから…そうだな、今日からちょうど2週間後…オーケー?」
「分かった、申請しておくわ」

成長期の黒チョコボは、あと2週間もあればさらに体格が良くなり大人2人乗せることも出来るようになるとアーデンは言う。
ニフルハイムへやってきてからアーデンと丸1日共に過ごすことなどこれまでなかったため、ヴィーデはその日を心待ちにした。






そして約束の日―


ヴィーデが朝食を終えた頃合いに部屋のドアがノックされた。その傍らには二人乗り用の鞍が抱えられている。

「ヴィーデ、おはよ」
「おはよう。それが二人乗り用の鞍なのね?」
「そ、ヴィーデを前に乗せてオレが後ろからハーネスを持つからね」
「操作する人が前の方がいいんじゃないの?」
「前方が見えたほうが分かりやすいし、オレの後ろに隠れたら手元見えないだろう?」

なるほど、とヴィーデが頷く。
きっとアーデンの身長ならば、ヴィーデの背後からでも楽にリベルタを誘導できるだろう。

部屋を出て、リベルタの元へ行く道中今日の予定を話し合う。山間の飛び方を学ぶためウルワート地方まで行き、そこから砂漠地帯の走り方をリベルタに慣れさせるのにスカープ地方を回る。
夕方までにはグラレアへ戻り、リベルタを休ませた後夕食は街で取ろうと決めた。

しかし迎賓室の前を通りかかった時、背後から二人を呼び止める声がした。

「あら、アーデン様…こんなところにいらっしゃったの?探したのよ」

鼻にかかったような甘ったるい声の方を振り返ると、そこにいたのは先日アーデンと共にいた女だった。今日は濃いスカイブルーのドレスを身に着けている。
10センチはあろうかというハイヒールを高らかに鳴らし、女は二人の目の前までやってきた。

「…あー…これはMs.ベネーヌ、ご機嫌麗しゅう…本日はどのようなご用向きで…」
「ふふっ…あなたに会いに来るのに理由が必要かしら?」
「……は……?」
「ねぇ、こちらどなた?紹介してアーデン様」

そう言って、ベネーヌという女はヴィーデの足の先から頭のてっぺんまでじっとりと眺める。まつ毛が異様なほど長く、瞼には3色のアイシャドウがグラデーションに塗られていた。
ふっくらした唇にはつやつやとした真紅の口紅が施されて、熱帯に咲く花のようだった。
豊かなブラウンの髪は葡萄の房を思わせるような大きなカールが幾重にも巻かれている。

「ふぅん…可愛らしい子ね。子ウサギみたい…アーデン様の部下かしら?」
「ええ、その…まぁ」
「ね、私のことも紹介してちょうだいよ」

そう言いながらベネーヌがアーデンの袖を二、三度引く。左手で赤い髪をがしがしと掻いて溜息をつき、改めて張り付いたような笑顔でヴィーデを見た。

「ヴィーデ、こちらは帝国の研究機関に大きな貢献を頂いているモース侯爵のご令嬢…Ms.ベネーヌだよ」
「よろしくねぇ。アーデン様のお嫁さん候補よ」
「…ち………はぁ…」

ちがう、と言いかけてその言葉は再び深いため息となって吐き出された。ヴィーデの顔を見ると、すでに表情が消えている。
この場の乗り切り方を教えてくれる人物がいるのなら、大嫌いな神にでもすがりたいとアーデンは思った。

「アーデン様、私ね、こちらへ来るときはいつもあなたのいるこの宮殿しか来ないじゃない?たまには外へ連れ出してよ」
「…外に…とは…?」
「知ってるのよ?あなた素敵な車を持っているんでしょう?乗せて欲しいわ」

そう言うと、ベネーヌはアーデンの腕を引いて歩き出した。
強引な女の腕を振りほどくことなく頭を軽く振ったアーデンは、持っていた鞍をヴィーデに渡すと右手を顔の前に垂直に掲げて声を出さずにごめんと口を動かした。
名残惜しそうに身体をヴィーデの方へ向けながら引きずられ、けれどそのうちベネーヌと共に歩いて去って行った。



その場に一人取り残されたヴィーデはしばらく呆然と立ちつくし、押し付けられた鞍を見下ろした。

「……何なのアレ……」

何日も前から約束していたのはこちらの方なのに。休暇を取るために2週間仕事をがんばってきたのに。

きつい香水の匂いをさせた女への憤りがふつふつと湧いて出てくるのを感じた。
そしてそれよりも怒りを覚えたのは、そんな女の誘いを断ることなくヴィーデとの約束を反故にしたアーデンに対してだった。
普段よりも歯切れが悪く、ベネーヌの機嫌を損ねないようにと気を使っているのが見て取れた。

「アーデンって…やっぱりああいう女性が好きなんだなぁ…」

ゆっくりと保管倉庫へ向かいながら呟く。
自分とは真逆のタイプの、美しく我が儘で甘え上手な女。大切に大切に育てられ、願いが叶わぬことなどただの一度もない人生を送って来たに違いない。
つい先ほどまで軽やかだったヴィーデの足取りは、粘着質な泥沼の上を歩くように重くなっていた。

俯いたまま保管倉庫へたどり着くと、扉が開いていることに気が付いた。中へ入り内部を見回すと、リベルタの側に銀色の髪の男が立っている。

「…レイヴス将軍?」

いつもの軍服を着ておらず、下は黒いパンツに膝までのブーツ、上は襟元にゆるいフリルのついた真っ白いシャツを着ている。義手も装甲を外してシンプルな状態だった。
将軍、と声をかけるとリベルタに伸ばしていた腕を止めてヴィーデの方を振り返った。

「…お前か」
「レイブス将軍、いつのまにその子に触れるようになったんですか?人には慣れてるけど、私とアーデン宰相以外の誰かが触ろうとすると嫌がるのに」
「オレはよくここへ来るからな。顔を覚えられたんだろう」
「…へー…」

ふとリベルタの足元を見ると、ちぎれた野菜の破片が落ちている。今日はまだ餌をやっていないはずなのにとヴィーデは首をかしげた。

「もしかして将軍、この子に餌をあげてくれてたんですか?」
「……………」
「だから懐いてたのねー、良かったねリベルタ」
「…チョコボは早起きなんだぞ。お前が来るのが遅いからな…こいつが腹減ったとオレに訴えるんだ」

それで仕方なく、とレイヴスが言った。
一体どんな顔をしながらリベルタに餌をやっていたのだろうかと想像すると、少しだけ微笑ましく思った。
先日レイヴスから釣り道具を受け取った際に見た僅かな笑顔といい、初見で感じたネガティブなイメージが払拭されつつあった。

「将軍、チョコボ好きなんですね」
「………嫌いだと思ったことはないが…」

そう言われ、ヴィーデは先ほどアーデンから受け取った二人乗り用の鞍を見た。

「今日レイヴス将軍はお休みですか?」
「ああ、ずっと休暇を取得していなかったら注意を受けた。所定の休みは取れとな」
「……今日暇ですか?」
「…何故だ?」

ヴィーデは二人乗り用の鞍を差し出して、この子に乗ってみないかと誘った。

「オレは黒チョコボには乗ったことがないぞ」
「だから二人乗り。私が操作するから大空を飛べますよ」
「……………」

不審な顔でヴィーデを見る。恐らくリベルタを全くコントロールできずにここを飛び出したヴィーデを見ているためその腕を疑っているのだろうと悟った。

「大丈夫ですよ…!あれから普通に乗りこなせるようになれたからここへ戻れたんだし……それに…」
「それに?」
「……本当は今日宰相と一緒にこの子であちこち回る予定だったのに急にダメになって…どうせ飛ぶなら二人乗りに慣れたいなあって」
「あの男はどうした」
「………お嫁さんとドライブデートですって……」
「…?…家庭は持っていなかったはずだぞ」

レイヴスがそう言うと、知りませんけど、と小さな声で呟いた。
少しだけ拗ねた様子のヴィーデを見て、そういう事なら付き合おうとレイヴスが言った。

「いずれこいつで外の任務に出るつもりなんだろう?それなら二人乗りに慣れておいた方がいいかもしれん。何があるかわからんからな」
「本当?良かった、付き合ってくれる人がいて」

そう言って笑顔を見せた。リベルタを寝床に繋いでいた綱をほどき、その背中に鞍を乗せて倉庫の扉の前まで誘導する。
先にヴィーデが前席に座り、レイヴスに乗るよう促した。
大人二人を乗せてもしっかりとした足取りを保つリベルタに感心し、大きくなったねと撫でてやる。

「将軍、私の身体にしっかり掴まっててくださいね、助走なしで最高速度が出るから」
「いくら黒チョコボでもそこまでの身体能力はないぞ…」
「振り落されても知りませんよー」

そう言って、行け、とリベルタに声をかけ両脚でその腹を軽く蹴る。とたんに強力な重力がレイヴスにかかり背中がのけ反った。

「…う…!な、何だこのチョコボは…!!」
「私の身体に捕まって!もうすぐ飛び上がるから!」
「…っぐ……このスピードは普通じゃないぞ…!」

背筋に力を込めて前傾姿勢を保つ。頬に当たる風の勢いが痛いほどだ。ヴィーデに言われたようにその身体にしがみつかなければ振り落されそうだった。
細い腰に腕を回し、顔を下に向けると少しだけ楽になった。

「空中に出れば後は楽になるから!」

大きな声でレイヴスに言う。
そのうち手元のハーネスをくんと上にあげて、飛べ、と一声かけるとリベルタは二、三度翼を羽ばたきその身を宙に躍らせた。
徐々に高度を上げ、いつしか宮殿を真下に見下ろすほどの高さになっていた。
高層ビルがオモチャの様に小さく、街を走る車は子供が遊ぶミニカーように見える。

揚陸艇では感じられない風の感触、足が地に着かない恐怖感、そして何よりもハーネスひとつでチョコボを操り自由に空を飛ぶという初めての体験に、レイヴスはしばし言葉を失った。






ベネーヌを助手席に乗せたアーデンの車は、帝都グラレアのビル群の間をのろのろと走っていた。
屋根を開いていないと社内に香水の匂いが充満してとてもじゃないが耐えられそうにない。これほど苦痛なドライブは初めてだとアーデンは思っていた。

さっきからずっと隣で機嫌良さそうに話している女に適当に相槌を打ち、コートのポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し左耳に差し込む。
本当ならば今頃、ヴィーデを後ろに乗せて大空を飛んでいるはずだったのに。仕事以外の色々な話をして、もっと距離を縮めたいと考えていたのに…。
妻候補などと、ベネーヌの余計なひと言には怒りすら感じた。あの時のヴィーデの顔が忘れられない。

帝国の研究機関で行われている魔導兵の開発やシガイ研究には莫大な費用を必要とする。
しかしニフルハイム帝国はそもそも国土自体が肥沃ではないため、領土を拡大するための侵略を繰り返してきたという歴史がある。
要はかさむ出費を補うためには帝国内の貴族からの資金援助は欠かせないという現実があるのだった。
複数の上流貴族との関係を絶つことはできず、ベネーヌのように年頃の娘を持つ貴族は、こぞって帝国宰相の妻の座を射止めさせようと必死なのだった。
興味のない女の機嫌を取り愛想を振りまく事などアーデンにとってこの上なく苦痛だ。

短くため息をつくと、そのうちアーデンの左耳に風の音が聞こえてきた。
ひゅるると笛の様に細く聞こえるそれは、ヴィーデがリベルタに乗り空を滑空していることを示していた。

ああ、ヴィーデは今一人で空を飛んでいるのだ。
二人乗り用の鞍をせっかく用意したのに。

アーデンがそう思った時―

『今日はどこまで飛ぶつもりなんだ?』

聞き覚えのある男の声が聞こえた。アーデンの心臓が一度だけ大きく打った。

『ウルワート地方に行くつもりだったから…そこまで行こうかなって思ってます』
『…テネブラエか』
『渓谷があるから、その間を飛んでみたいんです』
『そうか…安全運転で頼むぞ』

そんな言葉のやり取りが聞こえてくる。
アーデンに振られたヴィーデは、その後あろうことかレイヴスと共に空の旅へと繰り出したのだ。
どちらから誘ったのか、それを確かめる術はないが、どちらにせよ今ヴィーデはレイヴスと二人きりでいる。
レイヴスは黒チョコボに乗った経験などないであろうから、恐らくヴィーデがリベルタを操作しレイヴスがその後ろに着いているのだろう。
腰に腕を回され体を密着させて…。そんな状況を想像しただけでアーデンの表情は一層の曇りを見せた。

「…アーデン様…アーデン様ったらぁ」
「…ん…ああ、何か?」
「んもう!ぼんやりしちゃって…お父様に言いつけるわよ〜」

そう言ってあからさまに頬を膨らませてみせる。それはご勘弁をと笑顔を作り、左耳からイヤホンを外した。
この先聞き続けていてもいたたまれない思いが募るばかりで、加えて隣の貴族の娘の機嫌を損ねる結果しか招かないだろうと判断した。
一分一秒でも早くこの女と別れたい、そんなアーデンの気持ちがアクセルを踏む強さに表れていた。







ニフルハイム帝国から北上を続け、ヴィーデとレイヴスを乗せたリベルタはテネブラエ上空へとたどり着いた。
眼下に広がるのは、美しい森林と所々から滝の流れる渓谷だった。ヴィーデの生まれ育った村も自然が溢れる所だが、このような荘厳さは一切ない。

「レイヴス将軍、降りてもいいですか?」

ヴィーデはそう言うと、レイヴスの返答を待たずにリベルタを急降下させた。突然重力を失ったレイヴスの身体はふわりと浮きあがる感覚を覚え、思わず声を上げた。

「…おい…!!もう少しゆっくり…!」
「あれ?怖いですか?」
「こ……!」

怖くはない、そう言おうとした時、ヴィーデの手がハーネスから離れ自身も羽ばたくように両腕を広げているのを見た。

「お前…!ハーネスから手を離すな!!」
「やっぱり怖いんだ将軍」
「…お前が一番怖いぞ…!」

地面まであとわずかと言う時、ヴィーデはハーネスをぐっと引いてリベルタの体制を整え地上に上陸した。
ヴィーデの背中に頭をくっつけてぐったりとなったレイヴスに大丈夫かと声をかけ地面に足を付ける。
その後よろりと降り立ったレイヴスは、いまだに胸の気持ち悪さが抜けずに両手を膝に付けて屈んだままだった。

「…将軍、お水飲みますか?」

そう言われ、レイヴスはぎろりとヴィーデを睨みつけながら差し出されたペットボトルを奪い取った。
二人の目の前には、切り立った岩場に巻きこむ様にして建てられた城が見える。美しく幻想的で、ヴィーデは思わず見とれ言葉を失った。

「…きれいなお城…」
「お前はテネブラエ出身なのだろう、見たことがないのか?」
「ええ…一度も」
「あれはフェネスタラ宮殿だ。フルーレ家の人間が住んでいる」
「…!!」

あれが―。

カウザ・ノックス・フルーレがかつて過ごし、そして拒絶され失った居場所。彼女がどんな思いでこの場を去り、思いを馳せ、名もなき地へと追いやられたのか。
彼女にした仕打ちなど素知らぬ顔をして、ただひたすら美しく建つ宮殿を見ていると自然と涙が溢れ出た。

「………もっと近くで見てきてはどうだ?」
「…レイヴス将軍は…?」
「オレは帝国軍人としてここの者達に良く知られているからな……リベルタとここで待つ」

そっと背中を押され、ゆっくりと宮殿に向かって歩き出した。切れ目なく咲く青い花は絨毯のように足元に広がり、ほんのりと甘い香りをヴィーデに届けた。
今はただ、憎しみよりも悲しみでその胸がいっぱいだった。

涙をぬぐい、ふうと深く息を吐いてもう一度改めて宮殿を眺める。
帝国は行方の知れないルシスの王と、テネブラエの神凪であるルナフレーナを探しているという。
いつの日か、この美しい宮殿が朽ちる日も近いかもしれないということ、そしてそれにヴィーデ自身が関わる可能性があるということを肝に銘じ、生涯忘れぬようにと荘厳な姿を目に焼き付けた。



ヴィーデとレイヴスが再びリベルタの背に乗りこの地を離れるとき―。

上空から宮殿を見下ろしていたヴィーデが小さな声で歌を歌った。


千の日を超え、迎えた夜明け
光を帯びた三叉の槍よ、かの地と海に雨を湛えよ

風よ吹けよと、幾重の祈り
奇跡を帯びた三叉の槍よ、かの地と海の狭間に愛を


ヴィーデが幼い頃、母親が子守唄として歌っていたものだった。ずっと忘れていたけれど、何故か今鮮明に思い返すことができる。
次にここを訪れるときは、旧懐の情よりも激情の念を―。
そう心に強く決め、ヴィーデはニフルハイムへと戻って行った。






日が沈み、その日の夜の10時が過ぎた頃―。

ようやくベネーヌから解放されたアーデンは、香水の匂いの移ったコートを脱いでヴィーデの部屋へと向かっていた。
今日中に謝罪し、誤解を解くという言い訳をして明日からまたわだかまりのない関係を保たなければならない。

ドアの前に立ち、ふうと短く息を吐いて三回ノックをする。一度目と二度目は早く、ほんの僅か間を開けて三度目を。
自身が訪れたことを知らせるサインとして、ヴィーデとアーデンの間で使われている方法だ。

けれど今日は、そのドアが開けられる気配がない。いつもなら、すぐに迎え入れてくれるのに。

「…ヴィーデ、戻ってきてる?話をしたいんだけど…入れてくれないかな?」

そう声をかけても返事はない。

「今日さ、ごめん。本当に…。いや、断れなくてさ。貴族の令嬢だと言ったろ?彼女の機嫌を損ねると資金援助が……」

そこまで言って、口をつぐんだ。どのような言い訳をしようと、ヴィーデとの約束を反故にしたのはアーデンの方だった。
先約があるからと、言葉にしようと思えば出来たはずなのにアーデンはそれをしなかった。

もう一度深く息を吐いてポケットの合鍵に触れ、入ってもいいかと尋ねようとして、やめた。

ドアに手を触れ、

「ヴィーデ…おやすみ…」

小さな声でそう言って、ゆっくりとドアから離れ元来た道を戻って行く。

少しずつ遠ざかるその足音を、ヴィーデはドアに背をつけ聞いていた。どうしてドアが開けられないのか、その理由がヴィーデ自身もよく分からない。
腹を立てる権利など持っていないはずなのに、アーデンに対して何を期待し求めているのか。
正体のわからない胸の濁りを帯びた感情に、もう嫌だとため息をつく。

けれど今日だけは、あの貴族の娘と楽しくドライブをしたであろうアーデンの顔を見たくはないと心から思った。








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