ひんやりと冷たいバス停のベンチに腰掛けながら、吐く息の白を追いかける。乗るはずのバスを何度か見送っていれば、もうすっかり日は暮れて濃藍の空が広がっていた。
薄れては消えていく白をぼんやり眺めていると、ヘッドライトの強い光が差し込んできて思わず目を細めた。
――あぁ、最終バスだ。被っていた帽子を一度深く被り直して、おれはバスに乗る。
流れる車窓から見えるのは、4年間通った大学通りの見慣れた景色。あの角っこにあるパン屋も、二人でよく立ち読みした本屋も、安くて量の多さが自慢の定食屋も、ブランコ一つしかない小さな公園も。
全て目を瞑っていても細かく思い出せるほど慣れ親しんだ景色なのに……記憶の中にいつも隣に居たはずのナマエが、今ここには居ない。
プシュー、と気の抜けたような音を出して、おれを降ろしたバスが遠ざかっていった。それを見送ってから、あいつの待つあの狭いアパートまでの道のりを、おれはゆっくり、ゆっくりと歩く。
そうだ、途中のコンビニでナマエの大好きなプリンと、缶ビールを何本か買って帰ろう。きっとドアを開ければ、いつもの笑顔で待っているだろう。そして言うんだ――おかえり、ペンギン……と、明日からは聞く事が叶わぬ言葉を。
コンビニの袋を提げたおれはアパートの下に立ち、一つだけ明かりの灯った部屋の窓を見上げる。去年の夏祭りで買った季節外れの風鈴が、室外機の上でチリン……と淋しげに鳴った。
二人が飽きるほど時間を過ごした二階の角部屋へ続く階段を、時間をかけて一段一段上っていく。あぁ、帰りたくないんだ、おれは。このドアを開ければ、ナマエの旅立ちを祝って、冷えた缶ビールで乾杯をする。
そう、この春から故郷の小学校で教師になるナマエを祝って。
――ガチャ、
「あっ……おかえり、ペンギン」
「ただいま、ナマエ」
狭い玄関で立ち尽くすおれに、笑いかけるナマエ。その笑顔は何も変わらないのに、彼女の隣ではパンパンに膨らんだボストンバッグが、その存在を静かに主張していた。
「遅かったね」
「あぁ……これ」
何歩か歩けば、すぐ玄関に辿り着く狭い部屋。あっという間におれの目の前まで来たナマエへ、コンビニの袋を渡す。
「なぁに、ビール?……あ、このプリン買って来てくれたんだ……ありがと!」
嬉しそうに袋を覗き込むナマエがパラパラと落ちる長い髪を耳にかけた。その手には小さな石の入ったシルバーの指輪が、昨日までと変わらずに同じ場所でしっかりと輝いている。
おれは何故だかそれを見ていられず、思わず台所の小さなコンロに置かれた鍋に目を向けた。
「今日は寒かったからシチューにしたんだ」
「いい匂いだ」
「ペンギンの好物だもんね、シチュー」
「あぁ」
「……お鍋にね、沢山作り過ぎ、ちゃったからっ……明日も、食べて……ね?」
いつもの柔らかい笑みを浮かべていたナマエの顔が、見る見るうちに涙色へと変わっていく。お互い普段通りに振る舞おうとしても、今日を境に離れ離れになる"明日"が、もうすぐそこまで迫っている。見てみぬふりなんて、出来やしなかった。
「……っ、ナマエ!」
堪らず、ナマエの細い身体を強く抱きしめる。それに応えるように、痛いくらいの力が返ってきて。どちらのものとも分からない身体の震えごと、強く強く抱きしめた。
「ペンギン……今まで、ありがとう」
そしておれたちは、何度も何度もキスをした。ありったけの愛を込めて。恋の思い出を忘れぬように。
青い春をともに過ごした君へ、心からの感謝を伝えるように。
2010.5.25
2013.6.23修正