定時前にいきなり押し付けられた仕事のせいで、最寄り駅で電車を降りたのはゆうに20時を回っていた。いつもより1時間以上遅い時間、暗い夜道に小走りで駆けるヒールの音が響く。きっと"あの子"はお腹を空かせ、ソファの上で力無く丸まっているに違いない。早く帰らなければ。
「っはあ……ルフィ、ただいまっ!」
息を切らしながら鍵を開けた玄関の扉。いつもならリビングから漏れてくる明かりとバラエティ番組の賑やかな笑い声が迎えてくれるはずなのに、今日は真っ暗で冷ややかな廊下がただそこに横たわっていた。
「……ルフィ?」
従順な犬っころのような人懐こい笑みを浮かべ、元気いっぱいに飛びついてくる"あの子"の姿がない。遊びに出かけてしまったのだろうか。でも今朝はどこかへ行くという話はしていなかったはず。
いつもと違う我が家の様子に戸惑いながらも、廊下を進んでリビングの扉を開ける。静まり返った部屋の真ん中に置かれたソファの上、小さく盛り上がるブランケットの山を見つけて安堵のため息を吐いた。
「ただいま」
「……ん、」
「ルフィ、遅くなってごめんね?」
「……う、ナマエかー…?」
眠たそうに瞳を擦りながら身体を起こすルフィの横に腰掛けて、寝癖で跳ねた黒髪に櫛代わりの指を通せば。気持ち良さそうに目を細めたルフィがぐりぐりとおでこを首筋へ埋めてくる。
「お腹減ったでしょ? すぐご飯にするからね」
「ん……ナマエ、」
「なあに?」
「……もう、帰って来ないかと思ったぞ」
「ええっ?」
「なあ、」
「ん?」
「ナマエはおれのこと、置いて行くなよな」
ぎゅっと力を込めて巻きついてきた両腕は細っこいわりにちゃんと筋肉もついていて、ああ男の子なんだなぁ……と感じさせられる。でもこうして甘えたように擦り寄ってくる姿は、どこか頼りなさげで守ってあげたいとすら思えてくるのだ。
「ずっと一緒にいるよ?」
「本当か?」
「わたしがルフィに嘘吐いたことがあった?」
「……ない!」
「でしょう?ふふ…ほら、分かったら……ね?ご飯作らなきゃ」
しがみついて離れないルフィを窘めるように、形のいい後頭部をゆっくりと撫でる。いつも元気いっぱいのこの子は、一人ぼっちをひどく嫌う。うちへやって来る前の話を聞いたことはないけれど……きっと誰かを失う寂しさを、嫌というほど知っているのだろう。
「ナマエ、」
「なあに」
「ナマエ……」
「……ルフィ、好きよ」
「……おれも! ナマエのこと、好きだぞ!」
そう言ってやっといつもの向日葵のような、華やいだ笑顔を見せてくれたルフィ。ニイッと真っ白な歯を見せて笑う姿につられてくすくす笑い声を上げれば、チュッと小さな音を立てて可愛らしいバードキスが降ってきた。
子供なままなら君を愛していてもいいでしょうかtitle / hmr
2012.4.30