現代 | ナノ
はじめて食卓を囲んだ日


三つ下の幼なじみであるキッドから、ルームシェアをしないかと誘われたのは、梅雨前線が近づこうかという春も終わりの頃だった。
大学を卒業して業界三番手あたりの文具メーカーで働き始めていた私だが、ちょうど仕事にも慣れてきた入社二年目の年。そろそろ親元を離れて、会社の近くで一人暮らしでもしようかと考えていた折だったから、渡りに船の話にすぐ飛びついた。

てっきりキッドと二人でシェアするものだとばかり思っていたから、詳しい条件面の打ち合わせの場に、隈の凄い見知らぬ男が現れた時は正直驚いた。
がやがやと騒々しいファミレスのボックス席、私の正面に並んだのは幼い頃からよく知っているキッドと、その日初めて顔を合わせたもう一人のルームメイト。

長身痩躯で猫背のその男は、名前をトラファルガー・ローと名乗った。キッドはトラファルガー、と名字を呼び捨てにしているようだった。初対面の私は呼び名に困ってしまって、結局最後まで「あの」とか「ねえ」なんて言葉で乗り切ったような覚えがある。

そしてそれは、一緒に暮らし始めて数ヶ月経つ今も変わらなかった。


「……あれ、部屋に居たんだね」
「ああ、寝てた」
「そう」


仕事が終わって帰ってきた、3LDKのマンション。普段は自分の部屋よりもリビングに入り浸っていることの多いキッドの姿が見当たらなかったから、きっとバイトへでも行っているんだろう。そう納得しつつ一人分の夕食を用意していると、奥の部屋の扉から細長い影が音もなく現れて驚いた。


「あ、ねえ。ごはん食べた?」
「……いや、食ってねェ」


いまだに私はトラファルガーの名前を呼んだことがない。そもそも部屋に籠もるか、それ以前にマンションへ帰って来ないかのどちらかがほとんどである彼と、顔を合わせること自体が珍しいのだ。
だからこんな時、どんな風に接すればいいのか分からない。トラファルガーとの距離感が掴めないのだ。あまり話しかけても鬱陶しいだろうし、かといって同じ空間にいるのに何も話さないのも、何となく居心地が悪い。


「有り合わせのもので作っただけなんだけど、よかったら食べてく?」


トラファルガーに手料理を振る舞おうと本気で思っていたのか聞かれると、正直よく分からない。何となく、そう本当に何となく、口からぽろりと出てきてしまったのだ。たぶん、初めてに近い"二人きり"というこの空間を、取り繕うための咄嗟の言葉だったと思う。

だからトラファルガーが素直に頷いて、ダイニングテーブルの椅子を引いた時は、内心ぎょっとした。もちろん自分から誘った手前、そんな素振りを見せるわけにはいかないから、素知らぬ顔してフライパンの中身を菜箸で転がしていたのだけれど。


「はい、お待たせ」


寝起きだからだろうか、運んできた湯気の立つお皿をぼんやり見つめてくるトラファルガーは、なんだか普段のイメージよりも幼かった。そして寝癖がついて毛先の跳ねた後頭部を掻きながら、欠伸を一つ。そのトレードマークの隈から予想するに、きっと日常的に睡眠不足なんだろう。


「……いただきます」
「あ、うん。どうぞ、召し上がれ」


驚いた。欠伸の後とはいえ、礼儀正しく手を合わせてからトラファルガーは箸を手に取り、食事をとり始めた。もぐもぐと膨らんだ頬を動かしながら咀嚼する姿が、妙に可愛く見えてきて。懐かない野良猫を初めて餌付けした時みたいな、そんな気分。


「ねえ」
「……ん」
「味付け、大丈夫?」
「ああ」
「そっか、そっか」


それはまるで、手の中にある自分だけの秘密の宝物を眺めているような、特別な時間だった。ほんの少しだけ距離が縮まった気がしたのは、私だけだっただろうか。
空になったお茶碗をテーブルに置いたトラファルガーが、一言だけ「うまかった」と、そう言ったから。きっと私一人だけの勘違いじゃないはず。


「あ、ねえ」
「なんだ」
「また一緒にごはん食べようね、トラファルガー」



はじめて食卓を囲んだ日

それは、初めてきみの名前を呼んだ日。



2013.2.27


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