梅雨明け前の、蒸し暑い夜。ひんやりと空調のきいたバスから降りたナマエを待っていたのは、むわっとした空気と珍しく雲がかからず天の川を望める七夕の星空。
しかし子供の頃に絵本で見たような、満天の星空の中で逢瀬を楽しむ織姫と彦星は、そこには居ない。
地上から見上げる天の川は雲がかかっていなくとも、建ち並ぶビルや電線に邪魔されて、その輝きは少し鈍って見えた。
排気ガスで汚れた都会の星空にも、自然豊かなジャングルから眺める星空にも、等しく横たわる天の川で、織姫と彦星はちゃんと逢えているだろうか。
ぼんやりと星空を眺めるナマエの脳裏に、ふわりと浮かんだ人物。何故だか急に声が聞きたくなって、ポケットの中の携帯電話をそっと取り出した。ボタンを押して、普段はほとんどコールすることのない彼の番号を呼び出す。
プルルルルル……プルルル…
何度目かのコール音の後、届いた低い声に自然と口角が上がるのを感じた。
『ナマエか、どうした』
「ロー、お疲れさま。もう仕事終わった?」
『……あァ、まぁな。そんなこと聞く為にわざわざ電話してきたのか?』
耳に押し当てた携帯電話からは、クツクツと可笑しそうに笑うローの声。何がそんなにおかしいの、と思うナマエだったが耳元で響く声が存外心地よくて、結局何も言わずにいた。
そのままコツコツとヒールを鳴らしながら、ローの声と一緒に家路を辿る。
「用が無かったら電話しちゃダメなの?」
『そんなことは言ってねェよ、フフ』
「……今日は七夕だね。毎年曇りや雨が多いのに、今年は珍しく晴れてるよ」
『あぁ、星が綺麗に出てる』
「ローが居る場所からも見えてるんだ?」
じゃあ同じ景色を一緒に眺めてるんだね、とナマエが笑うとローも電話越しに微かに笑った。
『七夕に降る雨を催涙雨って呼ぶのを知ってるか?』
「へぇ、そうなんだ。織姫と彦星が逢えなくて泣くからかな?」
『おれは泣くくらいなら、どんな手を使ってでも逢いに行くがな』
「あはは、ローらしい! でも今年はきっと無事に逢えてるよね」
他愛ない会話を続けていれば、いつの間にかアパートの前に辿り着いていた。名残惜しいものの、ナマエは数メートル先に建つアパートを見遣りながら、そこで会話を切り上げる。
「あ、ローありがとう。アパートに着いたから、もう切るね」
『……あぁ、みてェだな』
「え……?」
ローの言葉に疑問符を浮かべていれば、プツリと突然切れた通話。そしてアパートの外階段の影から現れた、見覚えのあるシルエットに目を瞬かせるナマエ。
「おかえり、ナマエ」
「えっ、なんで? ロー、仕事は!?」
「そろそろ恋しがってる頃じゃねェかと思ってな」
ニヤリと悪戯な笑みを浮かべながら、ナマエへと近づいたロー。髪の毛を梳くようにゆるゆると撫でつけながら、彼女の後頭部を優しく引き寄せた。
そのまま逆らうこともせず、ナマエが顔を埋めれば。鼻腔をくすぐるのは、どこか懐かしくて安心するローの香り。
「……いきなり来るからびっくりした」
ローの広い背中に腕を回してギュッと抱きつけば、同じように返ってくる強い力。その心地良い拘束感に、身体中に溜まっていた疲れがふんわりと解れていくのをナマエは感じた。
「でも突然来て、もしわたしが誰かと一緒だったら……どうしたの?」
お互いに仕事が忙しく、遠く離れた場所で暮らしていることあって、会えるのはせいぜい月に一度。なかなか会えなかったことへのささやかな仕返しのように、ナマエはわざと意地の悪い質問をする。
「あ? 何処に居ようとおまえはおれのもんだ。邪魔する奴はぶっ潰してやるよ」
「……ぷっ、ふふふ」
しかし彼女の頬を両手で挟んだローは、鼻先が触れ合うくらいまで顔を近付けてニヤリと笑った。相変わらず自信満々な言葉が可笑しくて、でも何があっても揺るがない強い気持ちが嬉しくて。
ナマエはローと顔を見合わせたまま、ケラケラと笑い合った。
頭上には一人の帰り道に見上げたときよりも、ずっとずっと煌めいて見える天の川。今夜は星を数えながら一緒に過ごそう。
天の川きらきら2010.7.7
2013.7.13修正