現代 | ナノ
約束はないけど明日きみに会う必然


はじめてステージに立つ彼を見たのは、いつだったろうか。

真っ暗な空間に浮かび上がる、眩しいステージ。キラキラとライトを浴びて轟音の渦の中心でギターを掻き鳴らす姿に、呼吸も忘れて見入ってしまったのを覚えている。


黒のレスポールを華麗に操りながら、マイクへ唇を寄せる挑発的な眼差し。まるで愛撫のように滑らかにネックを撫でる左手が生み出す音に、魅せられてしまったのだ。


きっとわたしだけじゃない。彼を視界に入れた者は、みんな一人残らずその鋭い瞳に、ぞわりと肌が粟立つような色香を纏う歌声に、呼吸も瞬きも時間さえも奪われてしまうだろう。

そしてすべてを捧げたい、とさえ思ってしまうんだ――


*****


一日の仕事を終え、駆け込んだ駅のトイレ。慌ただしく化粧直しを済ませてから、腕時計を睨めっこしつつナマエが向かった先は――賑わう繁華街から少し外れた路地に面する雑居ビルの地下――ライブハウス『GRANDLINE』だ。


「いらっしゃい」
「こんばんは、シャッキーさん」
「仕事帰り? ローたちのバンド、今から始まるところよ」


ドリンクカウンターで顔馴染みのスタッフから注文したお酒を受け取ると、流れていたバンドのSEが止んでメンバーが姿を見せる。

天井の低いステージを窮屈そうに背を屈めて歩くドラムのキッドを先頭に、目深に帽子をかぶって真一文字に結ばれた唇だけを覗かせるベースのペンギン、そして最後にギターボーカルのロー。


定位置に置かれたマイクスタンドの前に立つなり、一言も発しないまま鋭い眼光だけを真っ直ぐフロアに向けるロー。革のストラップを肩に掛け、手にしたギターで最初のリフが刻まれた。


歓声とともに始まったのは、ライブのはじめに演奏することが多いアップテンポな一曲。ベースラインに絡む、低く伸びた歌声が心地よい。リズムに合わせて身体を小さく揺らしながら、混みあうフロアの人波を掻き分けた。


目指すはステージ向かって右側のスピーカー近く。この場所は特に女の子の姿が多い。ライブハウスの入り口が右手後方にあるせいで人が溜まりやすい、というのも勿論理由の一つではあるのだが……


「ヤバい! 超カッコいいよ、ロー!!」


ナマエの目の前に立つ女の子二人組が、頬を上気させながらステージに釘付けになっている。そう、その要因こそがこのフロア右手のゾーンだけ異様に女子の姿が目立つ、最大の理由でもある。


"要因"かつ"理由"の正体である男は、フロアのあちらこちらから上がる黄色い歓声に応えるでもなく、ただ目の前に据え付けられたマイクへ噛みつくように声を張り上げるだけ。


ナマエはこの距離、角度から観るステージが好きだった。周りの女の子たち同様お目当てのローに少しでも近づきたい、その視界に自分の姿を映して欲しい、という想いは確かにある。

けれども残念ながら、最前列を陣取るめかしこんだ女の子たちのようなキラキラと溢れ出す自信は無い。競い合うつもりももちろん無い。


――ただこうして、大好きな歌声を聴きながらお酒を飲んで、仕事の疲れを癒す時間がとても好きだった。


こくり、また一口お酒を飲んでステージをじっと見つめる。一曲目の演奏が終わり、ドラムのキッドが短いMCを行った。その間ローはずっと俯いてギターのチューニング。

てめェも何か喋りやがれ、というキッドの野次にニヤリとだけ口端を上げて無視を決め込む姿に、フロアからはくすくすと笑い声が上がる。


そしてドラムスティックのカウントから始まった二曲目のナンバーは、ナマエが一番好きな曲だった。メロディアスなギターを支える安定したベースと力強いバスドラムの音は、心臓の鼓動のようで何故か心を落ち着かせた。


――ああそうだ、はじめて観たライブで演奏されたこの曲を聴いて、訳も分からずぽろぽろと零れ落ちる涙を止めることが出来なかったんだっけ。


そんな少し恥ずかしい記憶を思い出して、ナマエはふっと表情を緩めた。はじめて味わった"音楽で心を揺り動かされる"という経験は、彼女へとてつもない衝撃を与えることとなる。それからだ、足繁くライブへ通うようになったのは。


「……」


瞬きをするのさえ惜しいようなそんな気持ちで、美しいメロディを生み出す男の横顔へ熱い視線を送れば。見つめる先に堂々と立つ男の喉仏がゆっくりと動いて、少しカサついた薄い唇が小さく開かれる。


そして低く掠れた歌声が、マイクを通してスピーカーから響いた瞬間だった。

観客がひしめくフロア後方を静かに睨め付けていたはずの双眸が、ふいにナマエの姿を捉えたのだ。その瞬間、ナマエは身体中を巡る血液が逆流するような感覚を確かに味わった。


「……っ、」


勘違い――そう言われても仕方ないだろう。これだけの人数の人間がひしめき合っているのだ。たとえば仲の良い友人が「ステージの彼と目が合ったのよ」そんなことを言ったならば、ナマエだってきっとそう返答するに違いない。


けれども最初のギターソロに差し掛かるまでの間中、ずっとぶつかり合ったままの視線は、ナマエに確信めいた想いを抱かせるには十分だった。


*****


ふ、と見上げた夜空で鈍く光る星たちが、建ち並ぶビルの谷間から顔を覗かせる。暗闇を彩るように光を放つそれらも"彼"の輝きには遠く及ばない。ナマエは瞼の裏に焼き付いた"姿"をゆっくりなぞるように、そっと思い浮かべた。


ライブ終演後メンバーが機材を搬出するために、ライブハウスの裏口にはバンドの車が横付けされる。もちろんそれはファンも周知のとおりで、ステージを下りたメンバーと少しでも会話をしようと試みる女の子たちが列を作っているのは、よく見る光景の一つだ。


静かに瞳を閉じていたナマエは、きゃあきゃあと沸き上がる甲高い歓声に気付いて、声のする方へ視線をやった。案の定そこにはギターケースを担いだローと、スネアケースを手にしたキッド、バンドスタッフのシャチとお喋りをしながらベースケースを運ぶペンギンの姿。


一目散にメンバーへと群がる女の子たちは、差し入れだろうか……皆それぞれ手に小さな紙袋を持っている。きっといつもライブ後にはこうして話しかけているのだろう。疲れた表情を見せながらも、メンバーは一人一人と言葉を交わしていた。


その様子をガードレールに凭れかかりながら遠目に見つめていたナマエが、こうしてライブ後のメンバーを出待ちするのは初めてのことだった。ライトを浴びるステージとは全く違う、頑張って手を伸ばせば触れることさえ出来そうな距離に、ドキドキと心臓がうるさく跳ねる。

(やっぱり、ステージ下りてもカッコいいんだ……)

遠目から目にするローは、Tシャツの上に軽く羽織った薄手のモッズコート、細身のデニムパンツというラフな格好だった。にも関わらず、不思議と彼の周りにはどこか近寄りがたいような、独特のオーラが漂っている。


女の子たちもいざ目の前に立つと気後れしてしまうのか、直接ロー本人に話しかけるというよりはスタッフのシャチを介して、チラチラと意味ありげな視線を送る程度。

(さて、と……そろそろ帰ろうかな)

気付けばたくさん群がっていたはずの女の子たちも一組、また一組と帰って行き、ナマエも終電の時間を気にしつつ、腰を上げた瞬間だった。


「ナマエさん! 来てくれてたんですね。あざっす!」
「あ……シャチ君、お疲れさま。今日もすごく良かったよ、お陰でいつもよりお酒がすすんじゃった」
「あははっ、メンバーに伝えときます!」


物販コーナーで新しい音源を買う際、何度か会話したことのあったスタッフのシャチが、ナマエの姿を見つけて声をかけてきた。人懐っこく笑うシャチの後ろで、サインを書いていたローが視線を上げる。


「シャチ」
「あっハイ! 何すか、ローさん!」
「……こっち代われ」


油性マジックをシャチに押し付けたローが黒いエンジニアブーツの踵を鳴らしながら、ゆっくりとナマエへと近付いてきた。


「……っ!」
「携帯、」
「へ?……え、携帯?」
「貸せ」


ナマエを見下ろすローはいつものポーカーフェイスを崩すことなく、手のひらを突きだして催促してくる。何が起きているのか理解するよりも先に、目の前へ現れた憧れの人物に促されるまま、鞄から携帯電話を取り出すナマエ。


引っ手繰るようにして、小さな白熊のストラップが付いた携帯電話を奪うロー。ポチポチと勝手にボタンを押して、何やら画面を操作しているらしい。対してナマエはと言えば、その傍若無人かつ非常識な行動に抵抗することもせず、惚けたようにただぼんやりとローの姿を見つめ返すだけ。


「今日の二曲目、良かっただろ」
「……え、」
「あんた、好きだろ。あの曲」
「えっ! な、なんで……それを……」


ニヤリと笑ったローが、真っ黒なナマエの瞳に映りこむ。驚いたような表情を浮かべ慌て出す自分の姿を、ローの灰色がかった瞳の中に見つけて――今日の演奏中に目が合ったあの瞬間は、やはり勘違いではなかったのだとナマエは確信した。


「消すなよ、そのアドレス」


またな、と手を振り背中を向けるローは、まだ残っているファンやぎゃーぎゃーと騒ぎ立てるシャチの様子に構うことなく、さっさと機材車へ乗り込む。


ぐちゃぐちゃに混乱する頭の中でナマエが感じたのは……ローの香水の匂いに混じる煙草の香りだとか、携帯を弄る指先の少し硬くなったタコだとか、そんな他愛もないことばかりで。


金縛りにかかったように動くことも出来ず、固まってしまったナマエがやっとのことで瞬きを繰り返す頃には――もうすでに機材車はメンバー全員を乗せ、ネオン輝く夜の街へと姿を消した後だった。



約束はないけど明日きみに会う必然



あと十数時間もすれば、見慣れぬ電話番号が着信を告げるだろう。
そしてきっと始まるのだ、新しい一日が。



2011.9.26
「LOVESICKxxx」の冬子さんへ捧げます


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