現代 | ナノ
始まりの風景


そろそろかな、とナマエが店内に掛かった時計を確認する――と、ほぼ同時くらいのタイミングで、ドアベルが軽やかな音を奏でた。


「いらっしゃいませ!」


木製の扉を開けて入って来たのは、無造作に跳ねた髪の毛に顎髭を蓄えた男性。第二ボタンまで開けた真っ白なワイシャツが包むのは、細身ながらもうっすら筋肉の付いた身体だ。

軽く捲り上げた袖から覗く両腕には刺青が入っており、いつも通り手元には経済新聞と医学雑誌。オーダーカウンターまで真っ直ぐ進んできて、壁に貼られたメニューを見るでもなく一言。


「「ブラックコーヒーひとつ」」


自分とは異なる甲高い声が重なり、一瞬だけ見開いた男性の目の下には深い隈。ナマエは勝手にクマの人と名付けているが、ナマエが働くカフェに毎日決まった時間になると現れる常連さんである。

とは言え、これといって特別な言葉を交わしたことがあるわけではない。ただ何となく、いつもの時間、いつもの風景の中にそっとお互いの存在を認識する程度。

けれど毎日顔を合わせていれば、イヤでも親近感が湧くというもの。繰り返す日常の中、ふと芽生えた好奇心からナマエは彼に声をかけた。


「ふふっ、いつものヤツですよね」
「……へぇ、いちいち客のオーダーなんて覚えてるもんなんだな」


ナマエが愛想よく笑うと、クマの人の表情がわずかに和らぐ。そしてニヤリと笑うと、代金をトレーに置いた。お札で支払う時は、いつもさり気なく正面に向けてからトレーへと置かれるお金。

そんなクマの人の些細な仕草に、心が解れるのをナマエは感じていた。自然と浮かんでくる笑顔のまま、お釣りを手渡した。


「ごゆっくりどうぞ!」
「あァ」


*****


ふとした好奇心と気まぐれで、ナマエがクマの人に声をかけてから数日――

相も変わらず彼は、いつもの時間に現れ、いつものコーヒーをオーダーしていく。ナマエもナマエとて、いつもの時間に現れた彼から代金を受け取り、いつものコーヒーを手渡す。

これまでと何かが大きく変わったわけではない。ただ、今まで淡々と繰り返してきた風景の中に、挨拶を交わすという新しい色が加わった。


「いらっしゃいませー!」
「よォ」
「いつものコーヒー、店内でお召し上がりでいいですか?」
「あぁ、今日はテイクアウトで頼む。あと、コレも一緒に」


そう言ってクマの人が手に取ったのは、レジ前に置いてあるカゴに入ったブラウニー。このカゴの中には、他にも個包装になったクッキーやマドレーヌなんかが入っているのだが。ドリンクオーダーの会計時、ついでに買っていくお客さんが多く、密かな人気コーナーになっている。


クマの人が手に取ったブラウニーはその中でも特に人気の商品で、かくいうナマエも大好きだ。しっとり生地に濃厚なチョコレートの風味がクセになる味で、チョコマニアのナマエも唸る一品である。


しかしながら、クマの人がコーヒー以外のものをオーダーしたことが、ナマエには驚きで。顔に似合わず甘いものも食べるのだ、という新発見からつい目を見開いて凝視してしまったのも、仕方がないだろう。


「あっ、そのブラウニー人気なんです! 実はわたしも大好きで……」


チャリン、と代金がトレーに置かれてハッと我に返るナマエ。コーヒーを手渡しながらそう言うと、クマの人は「だろうな」と言って、手にしていたブラウニーをそのまま彼女の手元へと投げた。


「わっ!」
「アンタにだ」
「え?」
「いっつも甘ったるいチョコの匂いさせてたからな。好きなんだろ? やるよ」
「でもっ、これ……」
「毎日の楽しみが増えた礼だ」


そう言ってニヤッと笑うと、クマの人は帰って行った。その背中を見送りながら、ほんの少しだけ早くなる鼓動に、ナマエは気付いていた。

――そうだ、次はクマの人に名前を聞いてみようか?なんて考えながら、ナマエは手のひらのブラウニーを眺めて小さく笑った。



2010.3.20
2013.6.25修正


戻る | *前 | 次#
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -