注がれる熱を身体の奥で感じながら、この人に抱かれるのは何度目だろうと記憶を巡らせる。
初めて出逢ったのは、濃藍色の空に浮かぶ月がまあるい正円を描く、そんな夜だった。いつものようにお客を取ろうと街角に立っていたわたしの前を、白熊を連れて通り過ぎたのが彼――トラファルガー・ローだった。
夜の色街には多種多様な人間が行き交う。生きる為に幼い頃からこの街に立ち続けてきたわたしは、それはもう本当に色んな人間を目の当たりにしてきた。
それでも未だかつて二足歩行する白熊を見たことがあっただろうか。答えは否。そしてそんな白熊を付き従えて、悠々と我が物顔で通りを歩く彼の姿に、思わず目を奪われた。
せっかくの月明かりさえぼんやりと霞ませてしまう、無粋で下品なネオン。そんな安っぽい偽物の輝きに溢れたこの街には不釣り合いの、自信に満ちた帽子の下のその表情。
こっそり目で追っていると視線に気付いたのか、数メートル先を歩いていた彼が不意にこちらを振り返った。慌てて睫毛を伏せたが、気付いた時には踵を返した彼のつま先が俯いた視界に映り込んでいた――それが、遠い世界に暮らす彼とわたしとの初めての出逢い。
「……考え事か? 余裕だな、ナマエ」
一度果てたはずの彼が、またゆるゆると腰を動かしながら耳元で低く囁く。
「そんなんじゃありませんよ、トラファルガーさん」
「何だ、イク時しか名前は呼べないのか?」
少し目を細めながら揶揄する彼に、言いようのない切なさが込み上げてくる。心の中で何度も何度も繰り返してきたその名を、本当は声が嗄れるまで呼び続けたい。
けれどもわたしは、この薄汚くちっぽけな身体を売ることしか出来ない、つまらない女。本当ならば、こんな風に彼に抱かれる事すら叶わないほどに、彼には不釣り合いな存在だ。……そう、この安っぽい街のように。
ロー、とその愛しい名を呼んでしまえば、彼を求める気持ちに歯止めが利かなくなりそうで恐い。わたしは彼を求めてはいけない。愛してはいけない。恋い焦がれてはいけないのだ。
たとえ彼が、わたしの名を呼びながら切なく眉を寄せて何度果てようとも。彼にとってのわたしは、お金を払って手に入れたただの商品でしかないのだから。
「ハッ……なぁ、ナマエ…っ……呼べよ、名前」
「んっ…ぁああっ…あ、またっ…ん…ああっ、ロー…!」
*****
いつの間に眠っていたのか――意識を取り戻した時には、わたしの身体は刺青だらけの腕の中に強く閉じ込められていた。
静かに瞼を閉じている彼の寝顔をそっと見つめながら、もう一度だけその名を呼んでみる。
「ロー……好き……」
彼に散々鳴かされた声はひどく掠れていて、小さく零した声にならない声は眠る彼に届くことはないだろう。届かない安心感と寂しさがぐるぐると渦巻いて、ギュッと胸を締め付ける。
痛みを逃がすようにわたしもそっと瞳を閉じれば、ぽろりと一筋の冷たい雫が頬を撫でていった。
汚らしい生き物の分際で
あなたに恋焦がれることをお許しください「……やっと自分からおれの名を呼んだな」
「……っ! トラファルガーさん、起きて……」
「違うだろ? ナマエ、もう一度呼んでくれ……おまえのその声で」
「あ……っ、ロー…?」
眠っていたはずの彼の双眸は静かに、しかし真っ直ぐわたしを捉えている。震える声でもう一度その名を紡げば、堰を切ったように溢れ出る涙。
滲む視界に何度かまばたきを繰り返せば、少ししょっぱいそれに舌を這わせながら柔らかく笑む彼の姿を見つけた。
ああ、これはきっと幸せ過ぎる夢。
last title / にやり
2010.8.19
2013.7.21修正