今日は船に乗る看護婦、ナマエの誕生日。夕日が地平線に沈んでから始まった祝いの宴は、丸い月と煌めく星々が真っ暗な夜の海を照らす今現在、尚も続いていた。
春島が近いせいだろうか、頬を撫でる夜風は冬島のそれとは違い、肌を突き刺すような鋭さは感じられない。
酒で程よく温まった身体には丁度いい――そんなことを考えながら、ローは満足げにグラスを傾ける。
目の前で繰り広げられるのは、酒に酔ったクルー達の肩を組んでの大合唱、酔い潰れた者がだらしなく甲板に寝そべる姿、それから……
また何か余計な一言でも言ったのだろう。シャチとペンギンに盛大なツッコミを受けたベポが、甲板に膝をついて項垂れている姿。
その隣ではクスクスと楽しげに笑うナマエが、ベポの頭をよしよしと撫でてやっていた。
そんないつも通りの光景を視界に映すローの表情が、普段よりもいくらか機嫌が良さそうだということは、この船に乗る者はみな心得ていた。だからこそ、無礼講の宴はどこまでも賑やかに続いていく。
そんな喧噪の中――これが本当に残忍と噂される死の外科医なのか?と疑うほどに穏やかな色を滲ませながら、どこか熱のこもった視線をナマエへと向けるロー。
ふ、と顔を上げたナマエとローの視線が絡み合う。アルコールの所為で目元をほんのり赤くしたローの口元が、優しげなカーブを描いた。
その自分を見つめる艶のある表情に、忙しなく視線を彷徨わせたナマエが慌てて俯く。
「……っ、」
「ナマエ、顔真っ赤だよ? 酔っ払っちゃった?」
酒の火照りとはまた別に、耳まで真っ赤に染め上げたナマエ。ふるふると頭を振りながら大丈夫だと告げるが、何も知らぬベポが「本当に大丈夫?」としつこく尋ねる。
「ごめん! ちょっと、お手洗い行ってくるね…っ」
パタパタと船内に続く扉に向かって駆け出したナマエの背を心配そうに見送るベポ。そんな二人の様子を、じっと見つめていたローが静かに立ち上がった。
*****
丸い窓が付いた分厚い扉の先に、ナマエはいた。ローのあの真っ直ぐな視線に晒されると、いつもどうしていいか分からずに逃げ出してしまう。
普段クルー達へ的確な指示を出す時の、真剣な眼差しとも違う。それ以上に真っ直ぐで力強く、真摯。
戦闘時の血に飢えた獣のような、ギラついた眼差しとも違う。それ以上に激しく欲するように、情熱的。
だからこそ、自分だけに向けられる船長の姿にナマエは逃げ惑うのだ。
――…ガチャ、
胸に手を当て深呼吸を繰り返していたナマエが、背後の扉が開く音に驚いて振り返る。
「っ、キャプテン……」
現在進行形で頭の中を飽和寸前まで満たしていた人物の登場に、ナマエは落ち着きかけていた脈拍が、またドクドクと速まるのを感じた。
「赤いな」
「……んっ…」
呟きながら、ローの手のひらがナマエの頬に触れる。
伏せた睫毛を震わせながら、視線を斜め下に落としたナマエの肩先――滑り落とされた刺青だらけの腕は、船内の壁とローの身体との間にナマエを閉じ込める枷となる。
無言のローから注がれる視線に耐えきれず、先に沈黙を破ったのはナマエだった。
「……あ、のっ…今日は、ありがとうございました!」
閉じ込められた温かな檻の中、ギュッと目を瞑ったまま声を上げる。
「お祝いの宴まで開いてもらって……うれし、かったです…」
「あんなので良けりゃ、毎日でも開いてやるさ」
「…っ……毎日だなんて、そんな…理由がないですよ」
どうしてこんなにもわたしを甘やかすようなことを、船長は言うんだろう。
どうしてこんなにも温かな手で、船長はわたしに触れるんだろう。
溢れ出す"どうして"の答え――それにナマエは薄々気づいている。
けれども、自分自身の心と頭と身体すべてがぐちゃぐちゃに……そう、ローの能力でバラバラにされたみたいにぐちゃぐちゃに交じり合って、整理がつかないのだ。
「おまえの笑顔が見たい、っていうのは理由になんねェか?」
「……きゃ、ぷて…」
真っ直ぐに注がれるローの視線と言葉に、身体を硬くさせ、息を飲みこむナマエ。
「そんなに警戒心を剥き出しにされると、さすがにおれでも傷つくぞ?」
「やっ、ちが……」
クツクツと喉を震わせながら、刺青の入った骨張った手がゆっくりとナマエの頭を撫でた。
「フフ…冗談だ。ナマエ、おまえはそのままでいい。……今はまだ、な」
だが、おれから目を逸らすな。いつかおれしか見えないようにしてやるよ。――続けられた言葉は、普段通りの余裕と自信に溢れた、強気の命令形。
それだというのに、不安と期待の色にゆらり揺れたローの瞳の奥に映り込んだ、己の姿を見つけた瞬間。一滴の雫が作り出した波紋のように、広がる小さな芽生えを、確かにナマエは感じた。
甘くてかゆい心のいたみtitle / 人間、きらい
2011.3.26
2013.7.24修正
「scent」のまり緒さんへ捧げます