通行止め


 ここから先は通行止めにございます。そこの線引きを超えないだけでいいのです、それ以上は望みません。誰一人としてここを通すわけにはいきません。あなたはそれならばと無理に入ってこようとするでしょうがそれも無駄でございます。私のこの貧弱な青白いもやしのような体からは想像も付かないでしょうが、戦いだけを取り柄としてきた岩男のような鉄壁の守りは神にも破ることが出来ないからにございます。
 唯一そこを通れる者は誰か? それはございません。先ほども述べました通り誰一人としてこの先を通る者はございません。ええ、それは私自身でさえ。
 なぜ通行止めなのかと申しますとそれは雨が降るように、それは生物が病に罹るようにこうして生きていればごく自然な思考で時と共に通行止めはやってくるのです。誰しもが一度は辿り着く結果であります。いえ、まだ青二才の私がここを終着点のような言い方をするのは少々甘い考えでございますね。修正しますと辿り着くのではなく、概ね人間はここを通過してゆくのです。いえ、通行止めの先を通過するのではなく、通行止めを解除してゆくと言う意味であります。人は一度は通行止めにして、蛇が獲物の鼠を捕らえるが如く我慢深く慎重にじっとりと頃合を見計らい、ことが完全に冷め切った時に何事も無かったかのようにしれっと通行止めを解除するのです。中には誤ってことが冷め切らぬ内に通行止めを解除してしまったが故に、その後また封鎖し生涯通行止めを解除しなかった者もございます。これは彼が愚かだったとしか言いようがありません。
 いいえ、私はその頃合がまだ来ていないのではございません。ことも冬の湯船のように冷め切り、頃合などとうの昔に通り過ぎて行ったのです。頃合と言うものもまた一癖も二癖もある厄介なものにございまして、目の前を通るのは本当に一瞬で見えるか見えないかという速さにもかかわらず一度通り過ぎるともう帰っては来てくれないのです。もう頃合など無視してしまおうかとも考えましたが、通行止めが習慣になっておりそれも出来なかったのです。人間という生き物は一度体に染み付いてしまったものを急にであれ徐々にであれ変えてゆくのがとても下手くそなものです。それ故開き直ってしまい病を患っても後残り少ない人生と悲観し習慣の改善すらも諦めてしまう者も多くございましょう。
 私も半ば諦めかけている人間の一人なのです。諦め切れていない理由の一つとしては、たまにこうしてあなたのようにこの通行止めを通ろうとする者が現れるからです。熱心にも私の戯言を聴いてくださる方がおられるからです。これはチャンスなのではと愚かな私は思うのございます。一度通り過ぎて行った頃合はもう彼方に消えましたが、きっかけはこうしてやや子のようにぐずる私を未だ見捨てずにたまにひょっこりと頭を出してくれることがあるのです。それが今です。たった今、こうして私が言い訳ばかりをのたまっているこの今も、彼はそっと側に居てくれているのです。
 しかしあまりぐずぐずし過ぎてもいられません。彼はまたどこかへ帰って行ってしまい、そして誰か別の者の所へ行ってしまうのです。なので彼が逃げない内に私は、何年も決心し切れなかったこの思いをとうとう解放してやろうと思います。これは私にとってとても重大で膨大な勇気を必要とすることでございます。一つの人生が大きく変わる瞬間だといち早く感じとった心臓が深呼吸をしても収まらぬほどに、いつもの何倍も早くそして不規則に脈を打っています。冷静に言葉を紡いでいるように見えますでしょうが、心臓も脳も緊張しきっていてこんな思いになったのは何年ぶりにございましょうか。いえ、これ以上うだうだと言葉を垂れていても仕方がありませんね。覚悟を決めます。
 さて、私のようなただの若造にここまで長らくお付き合いしていただいたことをとても感謝します。もうすぐこの話も終盤を迎えます。少し名残惜しい気もいたしますが、これで本当にお別れです。もう何年と通行止めだった道を今、解き放とうと思います。もう既に少しばかり立て札の”通行止め”の四文字は雨の後に晴天が訪れた時の蒸発してゆく蒸気のように淡く消えかかっております。これを完全に消す時なのですね。
 私自身も通ろうとしなかった、……いえ、それを怖がり拒んでいたその道の通行止めの立て札を葬って見せましょう。ここからは私にも未知の世界でございます。
 さあ、どうぞお通りください。


2012/5/13