星の見えない夜の空に、歓楽街独特のギラギラとしたネオンが毒々しい輝を放つ。
絶える事無い下卑た笑い声、怒鳴り声、泣き声、有象無象の雑音。そんな喧噪から少しだけ離れた所。隠れ家のようにひっそりと佇む洒落た煉瓦造りの店。
それがこの店、『PAB伝子』。
「いらっしゃいませ〜!あら湊さん、こんばんわ!」
店に入るなり涼やかな声で迎えてくれたのは利子さん。
キツすぎない化粧の切れ長な目元。薄く整った唇に引かれたグロス系のルージュが、妖艶にその端正な顔立ちを一層引き立たせている。
「あ!湊さん!いらっしゃい!また来てくれたんですね。嬉しいです」
奥のテーブル席から軽く手を振って挨拶してくれるのは半子さん。
髪の手入れは少し残念な感じだが、はにかむように少し照れた笑顔が、どこか柔らかさやあどけなさを感じさせる印象のナチュカワ系美人さんだ。
そして―――「あ〜ら!あんたまた来たのぉ〜?旦那と子供どうしたのよぉ〜!」そう言いながらカウンターの奥から顔を出したのはこのPAB伝子の名物ママ、山田伝子さんその人だ。
絵巻にある平安のお姫様のような文句のつけ様の無いサラサラストレートの黒髪。女性らしく上品でありながらも愛想のいい笑顔。
艶やかな少しラメの入ったパープル系のシャドーに真っ赤なルージュは、正に大人の女性を感じさせる。
―――そして骨張った頬に鷲鼻、しゃくれ気味の割れた顎・・・。
―――そう。PAB伝子は所謂『オカマバー』なのであった。
因みに利子さんは伝子さんの実の息子さんで、つまりは皆さん男性だ。
「今日はちょっと寂しくてごめんなさいね。仙子ちゃんや文子ちゃん達学生組は『試験期間だから』って少しの間お休みで・・・」
「良いの良いの!此処の人達皆楽しいし、近くに来たからちょっと寄りたくなっただけだから!」
端の方の席。カウンター越しから申し訳なさそうにモスコミュールを出してくれる利子さんに私は手を振って言った。
普段も満席大繁盛、という店ではないが常連さんが多く、いつもそれなりににぎわっている店内は、3〜4人程の客がちびちびと飲んでいるだけだった。確かに少し寂しい。
「若い子達は仙子ちゃんや留子ちゃん目当てで来る子も多いから、一杯飲んで帰っちゃう子も多いんですよね」
そう言って隣の席で困ったように笑いながら頬を掻く半子さん。
「若い子はこういうお店の楽しみ方を知らないから。でもそのお陰でこうして半子さんと私がゆっくり話せるわけですけどね!」
そう軽くウインクすると照れて下を向いてしまう半子さん。半子さんって純情女子高生みたいで本当に可愛い。
「も〜う!また安いカクテルちびちび飲んで時間潰そうってんでしょ?たまにはもっと良い酒飲んで行きなさいよ〜!ただでさえ今日は売り上げ少ないんだからぁ!」
奥からウイスキーボトルを片手に現れた伝子さんが私の隣に座る。
「・・・で?どうしたのよ。なんかあったって顔に書いてあるわよ?あたしが聞いてあげるから・・・話してごらんなさい」
と、自分のグラスにウイスキーを注いだ。
本当、敵わないなぁ伝子さんには・・・。
「それでね?そんな事言うわけですよぉ〜!私だって色々我慢してるし頑張ってるのに。一言労ってくれたり、たまには優しい言葉の一つもかけてくれたって良いじゃないですかぁ〜!」
強めのカクテルとウイスキーを何杯か。良い具合に酔いが回って来た私は、伝子さんに些細な不満の積もり積もりを盛大に吐き出していた。
「ちょっとあんた、飲み過ぎよ?べろんべろんじゃない」
言いながら伝子さんは私が飲もうとしたウイスキーのグラスを取り上げる。
「あ〜!私のウイスキー!ひどーい!伝子さんが飲めって言ったんじゃないですかぁ〜!」
利子さん、半子さんは席を外して他のお客さんの相手をしたりしている。
こういう話を聞くのはいつも伝子さんだ。
余計な口を挟まず聞く時は静かに聞いてくれ、時に共感し、時に叱咤し。
いつも必要な事、言いたい事は気持ち良いくらいズバっと言ってくれる。
そして何よりこちらの言いたい事、伝えたい事を察してくれ、欲しい言葉をくれる。
本当に、人生経験豊富な年上のお姉さんに話してる気分になる。
言いたい事をひとしきり吐き出せたのか、継ぐ言葉が無くなり深い息とともに私は黙った。暫しの沈黙。
ずっと相づちを打ちながら静かに聞いてくれていた伝子さんが静かに話し始める。
「あのね、つまんない我慢なんてするもんじゃないわよ?溜めて処理出来なくなるくらいなら溜まる前に喧嘩したって良いから吐き出しちゃいなさいよ。所詮人間なんてね、言わなきゃわかんないのよ。特に男はね、気付かないの。そういう生き物なのよ。勿論けんか腰じゃダメよ?でも思ってる事も言い合えないんじゃ、お互い要らない気を回して、必要な所に気を回せないで疲れて行くなんて事になるのよ?そんなの馬鹿みたいじゃない」
一つ一つ、丁寧に、理解し易いように、気持ちを込めるように。
この人のこういう所が凄く好き。
「たまにはね、甘えたり頼ったり、怒ったり拗ねたりするの。それでその分、いっぱい笑うのよ。どれかの感情だけ無理に押さえようとしたり無理に出そうとしたりするから苦しくなるの。人間なんだから、腹が立ったり不満に思ったりする事があって当たり前なの。寂しくもなるし、わかってても出来ない事だってあるし、意味も無く感情が抑えられなくなる事だってある。それが当たり前なんだから。言わなきゃ良かったとか、失敗しちゃったな〜って思ったって、ちゃんと気持ち込めて「ごめんね」って言って、また笑えるようにすれば良いのよ。お互いがそういう風に出来るって言うのが『誰かと一緒にいる』って事だと思わない?一緒に居るのにお互い独り相撲とってどうすんのよ」
いつも聞いてるうちに自然と涙が出ちゃうんだ。この人は何でこんなに人の心の中に暖かいものを注いでくれるのが上手いんだろう。
「自分を『大人』なんだからとか、『妻』なんだから『母親』なんだから、とか言い聞かせてない?確かに立場や責任ってあるけど、でも誰だって『何か』である前に一人の『自分』なのよ。『自分』が一人で立ってられない状態になっちゃったら、誰が『自分』の責任を果たすのよ?そりゃぁ一人で頑張らなきゃいけない事だってあるけど、独りぼっちで頑張るのとは違うでしょ。頑張らなきゃいけない事があるからこそ、いつでも頑張れるように自分を大事にするの。そして自分を『頑張ろう!』って気持ちにさせてくれるものを大事にするのよ。自分が大切にしたい人を大切にするって、結局自分を大切にする事からじゃないかしら?・・・少なくともあたしは、いつもそう思ってるわ」
小さくなって来た氷を転がし、静かにロックのウイスキーを飲み干す伝子さんは、間違いなく女性だ。
「あんたね〜、何泣いてんの。鼻水出てるわよまったく。ほらティッシュ!」
ちょっと笑いながらそう言うとごつごつした大きい手で私の頭を撫でてから、伝子さんはお洒落なカバーに入ったボックスティッシュをくいとこちらに押してくれる。
「まあ色々言ったけど、自分の人生なんていつでも自分のもんよ。あんたしあわせにすんのはあんたしか居ないんだから、しあわせにしてやんなさいよ」
うんうん頷きながらティッシュで鼻をかむ私。
顔を上げるととても穏やかで暖かい微笑みで、伝子さんが私を見ていた。その視線の優しさに、またじわりと来てしまう。
「ほら、もう。また泣くんじゃないの!そんなに泣いてうちのティッシュ使いまくるようなら今度からティッシュ代取るわよ?」
伝子さんは冗談めかしてそう言うと、空きの席に掛けてあった私のジャケットを取り、私に羽織らせると「ほら、もうそろそろ帰んないと終電逃すわよ?半子さん!この子駅まで送ってやって!」と、カウンター奥で何か作業をしていた半子さんを呼んだ。
あ、本当だ。もうこんな時間だ。この人は本当に気配りが出来る人だなぁ。
「そんな!一人で帰れます!今日人数少ないんだからダメですよぉ〜!」
少しばかり呂律は悪いが、一人で帰れない程に酔っているつもりは無い。
「ダメよ!あんたまだふらついてるじゃない。飲ますだけ飲ませてお客になんかあったとあっちゃPAB伝子の名折れよ。大人しく送られてきなさい!」
ぴしゃんと言い放たれてしまった。ふらついてるかなぁ?そんなでもないと思うのだけど・・・。
「うちなら大丈夫ですよ。もう新しくお客さん来る時間じゃないし、伝子さんさえいればなんだかんだでうちは回せちゃいますから」と、半子さんは笑顔で言いながら、自分もジャケットを羽織り送る準備をしていた。
思ったより飲んでしまったなぁと思いながらお会計を済ませて伝票を見て「おや?」と思う。
「最後の一杯の代金はサービスよ。あたしが途中で遮っちゃったでしょ?」
バチンと音が立ちそうなウインクで伝子さんがそう言った。
あれは最後には返してくれてちゃんと全部飲んだのに、なんか申し訳ない。
「え、でも私ちゃんと飲んだのに・・・」
「あたしが良いって言ってんだから良いのよ!悪いと思うならまたいらっしゃい!」
伝子さんがちょっと悪戯めいた笑顔でそう言い、有無を言わさず会計を締められてしまった。
―――本当に、敵わないなぁこの人には・・・。
「半子さんを襲っちゃダメよ〜!」なんて冗談を言いながら外まで送ってくれる伝子さん。
「気をつけて帰ってください。また来てくださいね。今度は私ももっとお話ししたいから」と利子さんも。
伝子さんの冗談に照れたように困り笑いしながら、半子さんが「じゃあ、行きましょうか」と私を促す。
駅まで、ほんの十分ちょっとの帰り道。
相変わらず街は煩くて、でも私の火照った頬を冷たく撫でて行く夜の風は気持ち良い。
半子さんは私の斜め前、半歩くらい先を歩いている。
「伝子さんも心配性なんだから。女子大生でもあるまいし、このくらい一人で帰れるのに」
ちょっと拗ねたようにそう言うと半子さんは「ははは」と笑った。
「伝子さんはお客さんの事を凄く大切にしてますからね。開店中以外も、いつも誰かしらお客さんの事考えてますよ」
すれ違う人達に私がぶつからないように、さり気なく先導しながら半子さんは言う。
こういう気遣いは、あそこのお店の人達は女性でありながら男性なんだなぁと思わされる。
伝子さんがお客さん大事にしてるなってのは凄くわかる。本当にふらりと飲みたくなって寄っただけの時とかに、他のお客さんの話をいっつも真剣な顔で聞いてるの何度も見てるし。
きっとあのお店のお客さんの中には伝子さんに色々相談したり、話聞いてもらったり、何か言って欲しかったりする人は私以外にも沢山居るんだろうな・・・。
私もその『お客さん』の一人なのかと思うと、当たり前な事だし、勝手だなとはおもうけれども少し寂しい気持ちにもなってしまう。
「特に湊さんの話は良く出ますね」
半子さんの言葉にドキっとする。私の話?どんな話してるんだろう?
「えー。面倒くさい奴だとか言われてないですか私?」
冗談半分、本気半分でそう言った私に、半子さんは「とんでもない!いつも『あの娘は頑張り過ぎなのよ』とか心配してますよ!暫く来ない時なんて『うちに来ないってのはあの娘が溜め込んでないって事だからね』なんて、少し寂しそうに言ってますよ?」本気で否定する。
こちらを見ながらそう言う半子さんの顔はとても真剣だ。半子さんもまたお客さん想いで誠実な人なのだ。
勿論利子さんも。
「そっかぁ・・・。なんか嬉しいけど恥ずかしい」
今までしてきた何気ない会話や、落ち込んだ時に行った時に何度も元気をもらった事。浮かんで来る場面、PAB伝子の面々。私は本当にPAB伝子が好きなんだなぁとしみじみ思う。
またじわりとして、少しの間、口を閉じる。
「・・・お店の事は、本当に気にしないで大丈夫ですから。もうお客さんも帰る頃だったし、そろそろ閉店準備を始める所でしたから」
いつの間にかもう駅はすぐ目の前。交差点の横断歩道を渡ったらもう『奥さん』で『お母さん』の私に戻って行かなきゃいけない。そう思うと歩調が少し遅くなる。
―――『何か』である前に『自分』は『自分』なのよ―――
―――頑張らなきゃいけない事があるからこそ、いつでも頑張れるように自分を大事にするの。そして自分を『頑張ろう!』って気持ちにさせてくれるものを大事にするのよ―――
少し寂しい気持ちになりかけた心に伝子さんの言葉が過った。
そうだ。『奥さん』であるために、『お母さん』であるために、『私』は『私』で居なきゃなんだ。『私』を大切にしなきゃなんだ。
思い出す伝子さんの一言一言で、また一歩踏み出す勇気が湧いてくる。
信号が青に変わった。後一分もしないで駅だ。私達は真っ直ぐ、横断歩道を渡った。
「まだ開店中なのに、わざわざ送っていただいちゃってありがとうございました。お手数おかけしてすみません」
私は律儀に改札前まで送ってくれた半子さんに頭を下げる。
「いえいえそんな!こちらが好きでやった事です!頭を下げられる程の事じゃないですから!」
慌てて自分も頭を下げるように私の顔を上げさせようとする半子さん。本当に真面目な人だなぁ。
顔を上げた私に「ね?」と小首をかしげるように笑う。
これ以上お礼を言うと逆にこの人を困らせてしまいそうなので身体を起こし、私も半子さんと同じようにして「はい!」と笑った。
店内や夜の街を歩いている時は気付かなかったけれど心無しか半子さんの頬がほんのりと赤い。他のお客さんに付き合って結構飲んでたのかな。
構内の明るさの下で見る半子さんは、見た目は背の高い可愛い奇麗なお姉さんだけど、お店で会う時とはちょっと雰囲気が違う。
あと十分ちょっとくらいで終電。ホームまでが微妙に結構距離のある広い駅だから、そろそろ行かなきゃかな。
「それに・・・」
数秒、押し黙っていた半子さんが口を開く。
「あんな顔の湊さんを一人、夜の街を歩かせるのは、私も心配だったから・・・」
そう言って微笑んだ笑顔は半子さんじゃないみたいだ。なんだか・・・―――
「それじゃあ、おやすみなさい。気をつけて。また来てください。待ってますから!」
一瞬惚けた私を「ほらほら!終電逃しますよ!」と改札機へと押しやって半子さんは爽やかに笑った。その笑顔は、やっぱりいつもの可愛い奇麗なお姉さんの半子さんだった。
PAB伝子
営業時間17:00〜25:00
TEL ◯◯◯-×××-◯◯◯◯
定休日毎週水曜
◯◯市××区◯◯町◯-×-×-◯
ようこそいらっしゃいませPAB伝子へ。
静かな時間と大人の癒しを求めるあなたへ、最高のCASTが美味しいお酒と楽しい時間をご提供いたします。
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