一度付いてしまった癖は中々抜けず、年が明けてからも私は相変わらずバイト帰りに公園に寄っていた。
それでも、サツキくんはここには居ない。がらんとした公園の広さを今年になってようやく知った。風の吹き付ける時計台は寂しい。

彼が来る事を期待している反面、もう来ないんじゃないかと思っている自分もいる。あの日の「ありがとう」の意味はまだ解らない。だけど、傷付けたなら謝りたかった。いつだって真っ直ぐな彼のように、私もそうありたかった。
そうして、人の居ない公園と自宅を往復する夜が続いたある日のこと。


「久しぶりだな」


何事も無かったように笑うその人。誰よりも音楽に愛された青年。


「なんだそんな顔して、もしかして嬉しすぎて言葉にならないか?」


ああ、何て言おうか。
クリスマスの日はごめんなさい、今までどうしていたの、また来てくれて嬉しい、また会えて嬉しい……違う、どれも違う。


「サツキくん、なの?」
「この距離で見間違えるのか?」


その時の私は完全に舞い上がっていた。少なくとも、思わず駆け寄ってその手を握ってしまう程には。


「…なんか、悔しい」
「悔しい?」
「話したい事はいっぱいあったのに、何を話せば良いか解らないの」


言いたい事は沢山あった。
だけどその全てが間違いで、全てが正解だった。


「怒らせたのかなって思ってた。ううん、今でもそう。クリスマスなのに、嫌な思いをさせちゃったって…」
「そんな狭い心は持ってねえよ。お前に俺はそう見えてたのか?」


彼が笑い、私は首を横に振る。

サツキくんはいつだってそうだった。
粗雑な口ぶりや態度に紛れて、流れる音楽のように、歌のように、全てを受け入れてくれるんじゃ無いかと錯覚するほどの器量の大きさや、優しさを見せてくれる。
簡単に言えば、私はそれに甘えていたのだ。お互いの事を知らなくても、なんとなく一緒に居られる距離やこの空間にまどろむ。吹き付ける風はいつだって冷たいのに、私の心は冬晴れの日だまりのようだった。


「そう言えば、あの後、本当に雪が降ったな」
「ホワイトクリスマスにはならなかったけどね。日付越えてたし」
「…お前って案外シビアだよな」


もしかしたらクリスマスの出来事は嘘だったんじゃ無いかと思うくらい、普段と変わらないやり取りだった。…だけど、どちらとも無く手が離れても私たちはいつものように座らない。
話すべきことがあった。けれど同時に、話題に触れることへの躊躇いもあった。それは私だけでは無く、サツキくんも同じだろう。


「あれから、色々あったって言えばそれっきりなんだが」


その証拠に、彼は言葉を濁す。


「本当は、もうここには来ないつもりだった」


ひゅう、と、頬を北風が撫でた。


「今日で最後だ」


サツキくんのミルクティーの髪が揺れる。
触れてしまえば一瞬の出来事。その中に、私たちの全てが詰まっているようだった。お互いに目を閉じる事も、視線を逸らす事も無かった。


「…そんな気がしてたよ」


それは今日、サツキくんを見た時から心のどこかで予想していたこと。確信なんてどこにも無かったけど、疑うことも無かった。

寂しいや悲しいなどの気持ちとは違う、私の中にある全ての言葉を使っても表現出来ない感情が渦を巻く。


「最後に一つだけお願いしても良い?」


今夜も風が冷たい。
後になって、今年一番の冷え込みだとを知るくらいに。


「サツキくんの事を教えて」


そこまで言って、私はようやくサツキくんから目を逸らす。逃げた訳では無かった。ただ彼に任せたかった。

サツキくんといる時、いつも浮遊感があった。どきどき、わくわく、そわそわ。文字にすればたった四文字の言葉の羅列になりそうだけど、実際はもっと深い。私と居て、彼はどうだったのだろうか。私は彼に対して何かを返すことが出来ていただろうか。


「仕方ねえな、なまえは」


名前を呼ばれて、下げたばかりの目線を上げる。彼の唇が私の名前の通りに動いたのは始めてだった。
サツキくんは私に座るように促すと、ケースからヴァイオリンを取り出した。三日月のように口角を上げた表情にこれで最後なんだと泣きたくなった。


「ちゃんと聴いとけよ」


月を仰ぐように凛と立つサツキくんは綺麗だ。どんな曲を弾いてくれるんだろう、なにを教えてくれるんだろう。そんな事を考えていたら、私は無意識に手を組んでいた。

一つ、サツキくんが深呼吸をした。

私の視界には、いつも通りサツキくんと時計台と月が写る。だけどそれだけじゃない。彼の生み出す音色が、歌が、風景を塗り変えて行く。

それは今までとは違う曲だった。初めて耳にする筈なのにどこか懐かしい旋律と、呼吸を忘れてしまうほど胸がいっぱいになる音色。
この曲を音楽記号で表すことが出来るのだろうか。三日月を過ぎた月が満ちていくような、落ちては溶けていく雪のような。儚くて淡くて、触れたら壊れてしまいそうなほど優しいのに芯は強い。ああ、そうか、クリスマスに見た花たちと同じなのだ。雪は溶けても、月が見えなくても、それが全てではない。―――全身が粟立つ。彼らしい曲だと、素直にそう思った。

演奏が終わっても音は耳に残り、その心地良さは悪い毒みたいだ。


「題名は?」


海を映すサツキくんの瞳が揺れた。一度瞼が落ちて、再び上がる。


「砂の城と月で――砂月」









この一冬の出来事は夢だったのかも知れないと、今でも時々思う事がある。あんなに綺麗な男の人も、演奏も、時間も、私は彼の他に知らない。

しかし数ヶ月後、私は雑誌の中の青年に酷く驚いた。その青年が、クリスマスの夜に「ありがとう」と言った時の砂月くんと同じ顔をしていたからだ。
ようやく知ることが出来た四ノ宮と言う字をなぞりながら、私はあの冬を思い出す。ふいに風が窓を揺らし、外を見れば春は麗らかにも逞しく花を咲かせていた。次の季節の訪れを告げる新緑が控えめに顔を覗かせている。

私と砂月くんが過ごす季節は、とうに雪解けを迎えていた。




月の楼閣


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