May at the second grade 一年の頃から、ゴールテープを切る度に指の先から凍りそうだった。 五月の風は良い。日差しの温度を覆い隠してくれるから。それでも、窓の四角から眺める雨に梅雨を感じる頃には、いよいよ夏が来てしまう。 「陸上はどう?」 かたんと品良く鳴った椅子の音は、その人の人となりを表しているようだった。 「知ってたの、私が陸上部だって」 「テニスコートから見えるんだ」 よく先輩達が部活中にテニス部について話しているのを思い出して、そっか、と相槌を打った。 二年生にして、ううん、一年の頃からずっと注目されていた幸村くんの事は、同じクラスになった今も噂ほどでしか知らない。けれどそれは幸村くんも同じだろう。 「テニス部はどう?」 「順調だよ、面白い後輩も入ったし」 穏やかな笑みと、先を見据える真っすぐな瞳。儚い人だと思っていた幸村くんは強い人だった。 ああこの人とも私は違うのだと、愛想笑いを作りながら思った。照り付ける太陽にも、空調の効いた部屋にも寒気を覚えるような、一向に慣れることの無い感覚。外ではさめざめと雨が降っている。早く私を走らせてと、瞬きを一つ。 「苗字さんは綺麗に走るよね」 「…どうしたの、いきなり」 したばかりの瞬きを繰り返して、ずっと思っていたんだと言葉を続ける幸村くんの顔を覗き込む。けれど、彼の目に映る自分の間抜けな顔に気付いてすぐに改めた。 馬鹿にされている訳では無かった。けれど褒められている訳でも無かった。 「陸上の事はわからないけど、誰かの走りが綺麗だと思うことなんて無いと思ってた」 違う、違う。そんな訳がない。私は勝ちたくて走る友達とも、勝ちたくてテニスをする幸村くんとも違う。綺麗なはず無いのだ、何も考えず走っているだけの私なんて。 「でもいつも思うんだ」 雨は嫌いだ。 走れない時間に、色んなことを考えてしまうから。 「綺麗だけど、それだけだって」 February at the second grade あれ以来、幸村くんと話すことが多くなった訳では無かった。私は彼の発言に傷付くことも悲しむことも無く、困ったな、と、心にも無いことを言った。 今、幸村くんは学校に来ていない。話題の人が一人減っただけの日々の中、私は変わらず走っている。耳の痛みも北風の冷たさも忘れるくらい、速く、速く。 そんな日々を繰り返す二月の放課後、私と陸上部の友達が先輩から呼び出された。 「もうすぐ私たち三年は引退しちゃうじゃない」 「はい、寂しいです」 この言葉に嘘は無かった。目の前の部長も副部長も、三年の先輩のことが私は好きだった。 テニス部ほどの功績は無かったけれど、元々勝つことを目的としてない私にはどうでも良かった。 「で、なまえちゃんに部長をやって欲しいの」 それなのに、私は今この部長と副部長から逃げたくて仕方ない。 「部長、ですか」 「適任だと思うんだけど」 陸上部は先輩達が居るのは二月末日まで。三月になったら、私たちの学年が中学の陸上部を引っ張っていかなければならない。 逃げ道なんて無かった。そんなものは、とっくの昔に自分の手で潰してしまったのだから。狼狽する私に、一緒に頑張ろうと、友達の声。 「どうかな?」 「精一杯、頑張ります」 どうして私なんだろうと不思議で堪らなかった。勝つことに執着の出来ない私になにが出来るのか、見えない先が不安だった。 帰り際、なまえちゃん、と、部長が私を呼び止めた。友達に先に行ってと告げて振り返る。ぶつかった先輩の瞳が、全ての答えだった。 「勝ってね」 そうして気付いてしまった。 ああこの人は解っていたのだと。だからこそ私に席を渡したのだと。そのことに気づかなければ良かったと思う自分を、もう一人の自分が責め立てる。先輩に頭を下げて見た廊下は滲んでいた。 ねえ幸村くん、今すごく貴方に会いたいです。 September at the third grade 夏の大会と一緒に、私たちの夏が終わった。 勝つことは目標じゃなくて求められたもの。少なくとも私にはそうだった。五月の雨の日、幸村くんはそれを言おうとしていた。そのことに気付いたのは、二月のあの日。 それなのに、八月二十日、私が勝利を掴んだ場所から遠いテニスコートで、幸村くんは負けた。 「偶然だね」 「幸村、くん」 なんて顔をすれば良いかわからなくて、だからってそれを顔に出してはかえって失礼になりそうで。 結局ぎこちなく笑った私に、幸村くんは私がよく見る微笑みを湛えた。 「部長なんだね、今」 「意外だった?」 「いや、納得した」 なるべく大会から話を遠ざけたくて、気にもなってない質問。クラスも離れた今、部活のことくらいしか私と幸村くんの間に話題が無いことが悔しい。 「走り方が変わったから、何かあったって思ってた」 「そっか」 「うまく言えないけど、今の方が親しみを持てる」 親しみ。きっとそれは、私も幸村くんと同じように勝ちたいと思ったからなのかも知れない。 私よりずっと前から勝つことの必要性を見てきた幸村くん。二つのトロフィーに書かれた文字が、皮肉で堪らなかった。 「優勝、おめでとう」 久しぶりの感覚がだった。 残暑厳しい九月に、取り込む酸素から心臓が凍ってしまいそう。先輩に頭を下げたあの日から味わうことの無かったそれに、幸村くんの柔らかな表情に、押し潰されそうだと思った。 「そんな顔しないでよ」 「でも、」 「諦めたわけじゃ無いから」 だから良いんだと、表情は変わって無いのに彼はもう笑っていない。 勝つことを、叶わなかった三連覇を、持てなかった優勝旗を、これからの試合を。諦めてないとは何を指して言ったのか。もしかしたら、私に考えつかないような事も含めた全てかも知れない。 「悔しくないとは言えないけど」 「うん」 「だからって、人の勝利を祝わないのは違うだろう」 息が止まる。冷えた心臓が温度を取り戻す。 ああ、五月と同じなのだ。目は口ほどにものを言うことを私は忘れていた。きっと、去年の私なら検討も付いてない。 これは、幸村くんのプライドなのだ。 「ありがとう、幸村くん」 とは言っても、幸村くんの考えは違うのかも知れない。結局、プライドだと思ったのは私の受け取り方なのだ。 自分を奮いたたせて胸を張る強さと弱さ。勝負に向かう人が持つ、そんな自尊心が恐かった。 けれどそれは昔の話。少しずつ解るようになったそれに、私も周りの真似をして胸を張った。 「ねえ幸村くん、今度、試合見に行っても良い?」 「ああ、是非おいで」 雨は嫌いじゃない。 考えることで得られるものもあると知った。教えてくれた彼に数えきれない気持ちを伝えたくて、私は口を開く。 「だから、勝ってね」 そうして幸村くんは一瞬目を丸くした後、したたかな瞳を未来に向けながら、困ったなと眉を下げるのだ。 あの夏の きみは 英雄だった |