おはよう、と、おやすみ。
ただそれだけを毎日言ってくる女が居る。朝と夜には必ず顔を合わせるのに、昼間は見掛けることも声を聞くこともない。この船であいつがどんな立ち位置なのかは知らないが、多分、好き勝手やってるんだろう。


「そう言えば、なまえも不思議よねえ」


例のごとく医務室のベッドの上、ナースの会話が聞こえて来た。


「毎日彼と顔を合わせてる人なんて、親父と私達とあの子くらいじゃない?」
「面倒ごとは嫌いなはずのに、ねえ」
「だれかに頼まれたとかは?」
「あら、あの子、頼まれて素直にやる子でも無いじゃない」


笑いあう声から侮蔑の色は感じない。妹、なのだろうか。どうでも良いけど。そんな事を考えていると、ナースの一人と目が合った。微笑みを投げ掛けられて気付く、こいつらは俺にわざと聞こえるように話していたらしい。

この船は解らない奴らばかりだ。今はこうしてあの女を気にする自分さえ、ただただ鬱陶しく、腹立たしいと言うのに。





「やあエースくん」


そして今日も、その女はわざとらしく笑顔を作ってこれから白ひげに襲撃を掛けようとする俺の前に現れた。
一発殴ってやろうかと拳を作ったことも何度かある。けれどそれもいつしか諦めて、俺は嫌そうな顔を作ると片手を首の後ろに置いた。


「なんの用だ」
「あれ、もう私を無視しないんだね。」


ああ本当に心の底から鬱陶しい。歳だって多分俺と一緒か、下手したら下かも知れねえ女が、なんでこうも何度邪険に扱っても目の前に現れる。


「用が無いならうせろ」


この一連の流れも、朝と夜で大して変わらない。女は壁に背中をついて腕を組む。廊下には充分に俺が通るだけの広さはあるのに、なぜか俺の足はいつもここで一度止まる。


「おやすみを言おうと思って」
「俺はまだ寝ねえ」
「でも私はもう寝るし」


だからおやすみエース、それだけ言うと、ひらひらと手を振りながら何も無かったかのように歩き出す。このあっさりした時間では女の思惑を掴めるはずもなく、居心地の悪さが残る。

けれどあのナース達の話が正しければ、こいつは頼まれたってやらねえ女、らしい。


「なあお前」


声を賭ければ、ぴくり、と彼女が立ち止まる。


「なに?…て言うかお前じゃない、なまえ」
「お前さあ、」
「なまえ」


俺から声を掛けたことに少なからず驚いたようだったけれど、頑なに自分の名前を言う彼女の瞳は強い。話したいなら名前で呼べ、と、そう言っている。


「…なまえ、なんで毎日俺のところに来るんだ」


その質問に彼女は目を丸くする。わざとらしい笑顔じゃない表情を見たのは初めてのことだった。それから、目尻にしわを寄せると腰に手を当てて、一言。


「いつかわかるよ」
「は、なんだそれ」
「家族になれば、言わなくてもわかるようになるの」


それだけ言うと、女は今度こそその場を立ち去った。
意味わからねえ。小さくなる背中にそう呟いた時に湧いてきた感情の名前を、俺はまだ知らない。


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