しん、と静まり返る王宮にひとつの靴音が響く。音の主は不安そうな表情できょろきょろとあたりを見回しながら、陽のあたる長い廊下を歩いていた。


「(誰も居ない…一体なにが起こってるの…?)」



普段なら鍛練に勤しむ声や忙しなく移動する誰かしらの足音で賑やかなはずの廊下。それが今はどうだろう。まるでこの広い王宮に自分ひとりしかいないのではないかと錯覚するくらい静かだ。静寂に思考を乱されて、心なしか足元も覚束ない。
その時、ふらりと曲がり角に影が現れる。ナマエは思わず立ち止まって身構えたが、影はもうすぐ傍まで来ていた。先に現れたのは、煌びやかな装飾の施された赤色の靴。


「!! 他に人がいたのか…!」

「し、シンドバッド王…!!」


は、と二人の視線が交わる。男は安堵に胸を撫で下ろし、女は驚きに息を飲んだ。直ぐさま片膝を突いて、胸の前で拳と掌を合わせる。


「も、申し訳ありません…不測の自体とは言えこのような身なりで王の前に現れるなど…」


目が覚めてすぐに異変に気が付いた彼女は、寝間着も髪もそのままに部屋を出て来てしまったようだった。簡易な造りの薄い布地。仕えている主人、まして国王に会い見える時に着る服装ではない。恐れ多いと跪き俯くナマエに王の声がかかる。


「そんなこと気にしないでくれ、格好なら俺もさして変わらないぞ。
 それより、不測の事態とは…?」

「あ、ええと、王宮が静か過ぎる、と思いまして…ここに来るまで誰とも擦れ違いませんでした」

「ああ、そのことなら心配ない。
 とりあえず座って話さないか?まさかこんな美しいお嬢さんに出会えるとは思っていなかった!」


とんでもない事が起きているかもしれないこの事態に、にこにこといつもと変わらぬ笑顔を見せるシンドバッド。
まるで原因が何であるかを知っているような口ぶりに何があったのですかと疑問をぶつけるが、のらりくらりとかわされてしまう。
まあまあと柔らかい声に宥められて、ナマエは歩き出す王の後に続いた。




「で、君は?どうしてここに?」


陽光降り注ぐ廊下の段差に腰掛けて問われた言葉に、ナマエは一寸目を丸くしてシンドバッドを見遣る。
彼女はこの王宮で文官として仕える身であるため、王やその周りの人々と顔を合わせる機会は多々あった。
言葉を交わした回数や自身の階級を考えれば当然の事かもしれないが、顔を覚えてもらえていないという事実にナマエは少なからず落胆していた。


「ナマエ、と、申します」

「ナマエ、か…宮中に詳しいということは文官か、はたまた武官、給仕…」

「はい、五年ほど前から文官として勤めさせていただいております」

「…まいったな、こんなに可愛いお嬢さんを見過ごしていたなんて、」


そう言ってシンドバッドは人懐こい笑みを浮かべてナマエを見遣る。その燦爛たる金の瞳になまえは目眩を覚えた。頬が熱い。可愛い、等と言われた経験があまり多くない彼女にとって、社交辞令とはいえその言葉は嬉しいものだった。まして今隣に座っているのは憧れの存在である国王なのだから余計に、彼女の心臓は喧しく胸を叩いた。

こほん、とひとつ咳ばらいをして恥ずかしさを紛らわす。

そのとき、ぐらり、一瞬視界がいびつに歪んだ。立ちくらみが起こった時のようにちかちかと目の奥が痺れる。しかし数回瞬きをする間に歪んだ世界は元通りの形に戻っていて、ナマエは違和感に首を捻った。


「……?」

「どうかしたのか?」

「あ、いえ、なんでも…ありません…」


その後二人はなんだかんだと身の回りの人々の事やシンドリアにあるお勧めの店の事、シンドバッドが経験した冒険譚に花を咲かせた。王とこんなに話が出来るなんて夢のようです、とナマエが言えばシンドバッドは柔らかく金色を細めた。あながち間違ってもいないな。小さく呟いた声はなまえには届かなかった。

真上にあった太陽が傾いて、二人を包む陽の光が段々と橙へ変わっていく。夜を告げる冷たい風が肌を撫でた時、は、とナマエが言葉を詰まらせた。


「シンドバッド王、その、蒸し返すようで申し訳ないのですが…」

「…なに、君が心配するような事はなにもないさ」

「でも…」

「目が覚めればわかるよ、」


目を見開いたナマエの前で、片膝に肘を突いて微笑む姿がぐにゃりと揺れた。言葉を紡ぐために開いた唇に、シンドバッドの温かな指先が触れる。


「また、ここで」






ゆっくりと意識が浮上して、重たい瞼を引き上げる。コンコンと音のする方へ視線を向けると、小さな嘴で窓を叩く鳥達の姿。
窓を開け放てば、眼下には食客たちの鍛練に励む声が響いていた。
なにもかもいつも通りの朝。朝焼けが眩しくて瞬きを数回繰り返す。



「夢、…だったなんて…」



大鐘の音が朝を知らせる中、ナマエはぺたりとその場に座り込んで両手で顔を覆った。
夢の中で触れられた唇が、酷く熱を持っている気がした。

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