01



ざぶん、大きな音がして、たくさんの気泡が肌を撫でる。
肌を刺すような冷え切った水中では、僅かにでも残った酸素を保っていることさえ出来ない。
圧迫された肺からごぼ、とありったけの酸素が逃げていく。

薄っすらと開いた瞳が最後に見たのは、太陽の光を反射してきらきらと輝く水面。
冷たい水に浸された耳が最後に聴いたのは、わたしの名前を呼ぶ誰かの声。


ぷつり、意識が途切れた。






重い目蓋をゆっくりと引き上げる。

ぱちぱちと何度か瞬きをして、散漫な動きで目元を擦る。
ぼんやりと見える視界には、ところどころに細微な装飾の施された白い天井。
柔らかなベッドに寝かされていた体が軋む。いったいどのくらい意識を手放していたのだろう。
鈍く痛む頭を押さえてみれば、質のいい生地がするりと腕を撫でた。
ぱりっとして真新しいそれは、さっきまで着ていたわたしの服とはちがうものだった。
ここは病院かどこかだろうか。気怠い体に鞭打って起き上がれば、柔らかな風がふわりと吹いて、わたしのものではない長く綺麗な髪が舞った。

それを見た瞬間、急に視界がクリアになって、まるで白いキャンバスに色を付けたみたいに全ての色が鮮やかに写った。
突然流れ込んできた鮮やかな色たちに目の前がちかちかして、何度か瞬きを繰り返す。
またごしごしと目元を擦って、流れるような黒髪に誘われて辿った先、わたしのすぐ傍に、その人は居た。

紫掛かった艶やかな黒髪に、煌びやかな金色の装飾、見慣れない白い服に身を包んで。
まるでおとぎ話に出てくる砂漠の国の王子様みたいな風貌をした男の人が、ベッドの脇の椅子で静かに寝息をたてていた。
風が吹く度、彼が呼吸をする度に、逞しい肩からはらはらと髪が落ちる。


「(綺麗な人、…)」


ドラマか映画の撮影だろうか。今時こんな綺麗な人ほいほいとそこら辺にはいないだろう。だとしたら今わたしが寝てるのはもしかしてセットの一部ではないだろうか。
ふかふかの、一人で使うには広すぎるベッド。そして部屋の中をぐるりと見回すと目に入るのは、絵の中でしか見たことのないような装飾が施された家具や高価そうな調度品。
もしかして、わたしは今とんでもなく場違いなところにいるのでは。
些か不安になってきょろきょろと辺りを見てみるけれど、今この部屋にはわたしと、隣で寝ている彼しかいないようだった。
気持ち良さそうに寝ているのに起こしてしまうのは忍びないとは思いながらも、起こさないことにはこの状況を打破できない。

一体どうしたものかと首を捻った。
というか、わたしは川に落ちたはずなのだけれど、ここは何処なんだろう。まさかそこにいる方が助けてくれたのだろうか。
でも、いくらいい人そうに見えても役者さんが自らそんなことするなんて万に一つもないだろう。
差し込む陽の光に反射して輝く長い髪がゆらゆらと揺れる。ついついその寝顔を凝視してしまった。
きりりと整った、日本人とは思えない顔立ち。伏せられた長い睫毛が頬に影を落としている。何もしていないのにそれだけで絵になるなんて、きっとかなり有名な人なんだろうけど、見たことないなぁ。

誰かが来るまで見惚れているのもそれはそれできっと楽しいのだろうけど、このままだと彼に迷惑が掛かってしまうかもしれない。
それにこの人がわたしを助けてくれたのだとしたら、きちんと目を見てお礼を言いたい。
起こしても、いいだろうか。




「シン、彼女の様子はどうで、 あ、」


あの、と口を開きかけた時、不意に視界の端で扉が開く。
部屋の中に入ってきたのはこれまた砂漠の国を思わせるような格好をした人。
緑色の被り物の下の銀髪から覗く瞳が、まあるく見開かれてわたしを見る。
よかった、他にも人がいたんだ。ほっとしてその人に話しかけようとしたとき、突然彼の表情が驚いた顔から厳しいものに変わった。


「シン!!!あなたまさか寝てるんじゃないでしょうね!」


ずんずんと足早にわたしたちのいるところまで近付いてきて間髪いれずに寝ていた男の人の耳を力いっぱいつねった。
さすがにそれには夢の中にいた彼も驚いたのか、勢い良く飛び上がってなんだなんだと慌てている。
そんな様子を見てはああ、と重苦しい溜息を吐きながら、銀髪の人が頭を抱えた。
あなたって人は本当に…とぶつぶつ零しながらもう一度、溜息。


「…彼女が心配だから傍についているよと言ったのはあなたですよね…?」

「あ、ああもちろん、だからこうしてお嬢さんが目を覚ますのを今か今かと、 ん?」


立ち上がった彼の、透き通るような金色の瞳がベッドの上のわたしを捉えた。
一般人のごくごく平凡なわたしにもわかる。この人、他の人と違う。
それが何をもって他と違うと思ったのかは未だ、わからなかったけれど。

わたしを見るなり彼はぱあっと人懐っこい笑顔を浮かべてこちらへ向き直ってくれた。
再度溜息を吐きながら銀髪の人も彼の傍にすっと立って、なんだか偉い人とその秘書さんみたい。
わたしも二人に倣い慌てて姿勢を正して、体ごときちんと彼らの方を向く。
どうやらその選択は正しかったのか、黒髪の人がうんうんと満足そうに頷いてくれた。


「ようこそシンドリアへ! 我らはお嬢さんを歓迎しよう!」


凛とした声が広い部屋の中に響く。
その声からもなにか気迫のようなものが感じられて、ああきっとすごい人なんだなと妙に納得した。
でも、彼の言っているしんどりあとは何のことだろう。そんな不思議な地名地元にあったかな。
シン、と呼ばれた彼は言葉を切って快活に笑った後、どっかりとまた椅子に座り直した。


その瞬間、 僅かに冷やりと背筋が震えて、はっとする。
今話していたこの人じゃない、たぶん、銀髪の人。
ぐ、と圧迫されるような感覚に彼と目を合わせることが怖くて、そちらへ視線を動かすことさえ出来ない。
じわじわと嫌な汗が浮き出てくる。不安に押し潰されそうな心臓をぎゅっと服の上から押さえた。
自然と呼吸が浅くなって、生唾を飲み込んだ喉が、いやに大きくごくりと音を立てる。



「さてお嬢さん、早速なんだが」


ちらりと後ろに視線を向けて、苦虫を噛み潰したような微妙な表情で笑う黒髪の人はわたしの方を見てうーん、と唸って考え込むような素振りをした。
しばらくの沈黙が続いて、押し殺した息が洩れそうになるのを堪えきれなくなった時、後ろから小突かれたのか、彼はわかったわかったとしぶしぶ頷いた。
困ったような、でも真剣な表情で、金色の瞳が私を射抜く。




「君は一体何者なんだ?」



ひゅ、と喉の奥で声にならない声が悲鳴を上げる。

此処は、わたしの知っているところとは違う。
ただ漠然と、そう思った。

 
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