質の良いグランドピアノが、柔らかなメロディを紡ぐ。
それに小さく可愛らしいソプラノが乗せられて、部屋の中を温かく包み込んだ。

その音に聞き惚れながら、淹れたての紅茶に角砂糖を添える。
小耳に挟んだ情報を元に、こそこそと書き足しているメモを見て再確認。


「(七海様のには、お砂糖はふたつ…)」


うん、とひとつ頷いて、丁度良く止まった音色に言葉を挟む。


「お紅茶入りましたので、少し休憩なさってはいかがですか?」




今日は我が主、レン様のご友人である七海春歌様が遊びに…ではなく、課題の相談をしにやって来られました。
場所は神宮寺邸防音室。
元々は坊ちゃんがサックスを練習する時に使っていた部屋だったのであまり広くはなく、置いてあるのは愛用のサックスだけでした。
早乙女学園に通うようになってからは、ご友人を招いて練習する機会も多くなり、今となってはギターやピアノ、果てはヴィオラまで様々な楽器が置かれるようになりました。

そのご友人様達の中でも一際特別なのが彼女、七海様です。
大事な課題の練習中に口を挟まれた事にも嫌な顔ひとつせず、綺麗な夕焼け色の髪を揺らしてありがとうございます、と笑顔を返してくれる。
そんな広い心を持った優しい方。
そしてなにを隠そう彼女は、坊ちゃんの大切なパートナーなのです。

最初に坊ちゃんが七海様を連れて来られた時は、使用人一同が目を丸くして驚いた程でした。
ふらりふらりと女性の所を渡り歩く事はあっても、お屋敷に招くことは一切しなかったあの坊ちゃんが、初めて女性を連れて来たのですから、その衝撃たるや凄まじいものでした。
七海様が特別なのだということは皆瞬時に理解し、中にはお付き合いされているのではという声もあがっていた。
かくいうわたしも、賛成派の一人。
なんとなくですが、七海様と一緒にいる時は坊っちゃんの纏う空気がいつもより柔らかく、穏やかになる気がするのです。

ゆくゆくはわたしがお二人の恋を取り持って…なんて想像をしているとついつい頬が緩んでしまって、にやけてしまいそうになるのをなんとかこらえる。
そのときぱちりと七海様と目が合って、どちらともなく笑みを交わし合った。


「課題の進み具合はいかがですか?」 
 
「あ、はい、順調です。
 あの、でも、みょうじさん、聴いているだけでは退屈じゃないですか?」

「いえ、そのようなことは…」

「…確かになまえにはちょっと退屈かもね、
 でも参加しようにもなまえは楽譜読めないし、歌もあんまり上手じゃないからねぇ…」


意地悪そうに細められた瞳が、ちらりとこちらを向く。
なんですか坊ちゃん、その言い方。なにも七海様の前でそんなこと言わなくてもいいじゃないですか…!

恥ずかしさと少しの憤りで頬に熱が集まる。
それでも平静を装って七海様の方に視線を遣れば、えっと、その、と返答に困っている様子。
坊ちゃんはともかく、優しい彼女の気を煩わせるようなことはしたくない。
溜息を上手く隠しながら、ティーセット一式が乗ったワゴンをローテーブルの横につけて、深々と頭を下げた。


「では、私は控えさせていただきます。御用が出来ましたらお呼びくださいませ」





「ふたりきりになりたいならそう言えばいいのに、ねぇ、」


暖かな日差しの下、制服にも関わらず芝の上に座り込んで、膝の上で丸くなる彼に向かって呟いた。

首元を撫でてやれば、ごろごろと喉を鳴らして気持ち良さそうに目を細める。
その仕草がたまらなく愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。


「ねぇクロさん、なんで坊ちゃんはあんなに意地悪なんでしょうね」


もはや神宮寺家使用人の間でマスコット化している黒猫、通称クロさん。
日の光を浴びるときらきらと光る黄緑の瞳が印象的で、気まぐれにふらりと現れてはいつの間にかいなくなる男の子です。

彼はわたしの言葉に小さくにゃあ、と鳴いた後、何かに気付いたかのようにぴくりと耳を震わせた。



「あれはあれであいつなりの愛情表現なんだろ」

「…見ていたのなら助けてくださっても良かったじゃないですか、お兄様」


聴きなれた声にむすりと頬を膨らまして応えれば、わるいわるい、と笑みを含んだ声が返って来る。
いつものスーツとは違うラフな格好で現れたご長男様は、全く躊躇することなく芝の上に座り込んだ。
片手を伸ばしてクロさんに触れて、わたしと同じように首元を柔らかく撫でる。
 
 
「七海様や他の方にはお優しいのに?普通ならあちらの方が適切な愛情表現だと思うのですが、」

「彼女は特別。 他はどうだか知らないけど。
 あの子はレン 変えてくれた子だからね、あいつにとって彼女の存在はかなり大きいと思うよ」

「…」


坊っちゃんが七海様と出会って数ヶ月。たかが数ヶ月と言ってしまえばなんのことはないのかもしれない。
けれどもこの短い期間で彼女は、確かに坊ちゃんの心を動かしていた。

出席日数も日に日に多くなり、暇さえあれば口笛やメロディを口ずさむようになって。
なにより一番の変化は、お兄様達との会話が増えたこと。
ぎくしゃくしていてぎこちなく常にぴりぴりとしていた空気が、目に見えて和らいでいった。

彼女と、彼女の音楽が坊ちゃんを変えてくれた。

それは、わたしには出来なかったこと。

わたしは何も持っていないから、坊ちゃんが望むようなことはなにひとつしてあげられない。
なるべく粗相をしないように注意しながら、身の周りのお世話をさせてもらっているだけ。
 
そんなわたしが七海様や他の方と同じように接してもらいたいだなんて、本当はおこがましいのかもしれない。

ぼーっとそんなことを考えていたら、不意に頭に重みがかかる。
そのまま軽く撫でられたと思えば、急にわしゃわしゃと髪を掻き乱された。


「わわわ何するんですか!!」

「まぁまぁ、レンは君のこともとても大事にしてるみたいだし、そう気を落とさないで、」

「いや別に気を落としてなんか…」

「レンのあの態度は君の前でしか出ないだろう?
 なまえさんもまたあいつにとって特別なんだよ」

「…それは喜んでいいところなんでしょうか…」


なんだか腑に落ちない気もするけれど、少しだけその言葉に励まされる。
特別だなんて言葉はわたしにはもったいないと思いながらも、必要とされていることは素直に嬉しい。
もやもやとざわめく胸の内も、きっとこれから坊ちゃんの役に立つことで解消されるのだろう。
 
 
「弟のように慕っている坊ちゃんをとられてしまうようで、少し寂しかったのかもしれません、」

「…え、 弟…?」
 
「えっ あ、 弟は少し言い過ぎたかもしれません…!出来たら坊ちゃんには内緒にしておいてください!」


思わず零れてしまった呟きにはっとする。
弟みたいに思ってるだなんて知れたら、きっと坊ちゃんは機嫌を悪くしてしまう。
常日頃から年下扱いするなと言われているくらいだから、弟なんて単語を出したら、最悪、解雇されてしまうかもしれません。

考え込むような素振りを見せるご長男様に、あわあわと身振り手振りで弁解する。

その後なんとか坊ちゃんには黙っていてもらうように約束を取り付けて、ほっと一息。
かと思えばいつもは鳴らない連絡用の携帯が震えて、今すぐ戻れといつもより低い坊ちゃんの声が聴こえたときには背筋が凍った。
慌ててクロさんをお兄様に預けてお屋敷へと駆け出す。




「まだまだ先は長そうだぞ…レン…」

「にゃう?」



そんな会話があったことなど露知らず、こけそうになるのをなんとか堪えて屋敷に戻れ
ば、これまた機嫌の悪そうな坊ちゃんの笑顔に出迎えられて、心底泣きそうになりました。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -