いつも通りの夕餉を終えて、白く湯気立つ茶をすすっていると、何やら物言いたげな視線が犬夜叉を刺す。
 ちらりちらりと視線を送るのは、囲炉裏を挟んだ向かいで同じように湯呑みを手にするかごめだ。
 そういえば夕餉のときから何やら言いたげであった。
 その落ち着かない姿に犬夜叉は首を傾げる。
 どうしたのかと問うてみれば、かごめはおずおずと躊躇いがちにその口を開いた。

「あのね……耳、触ってもいい?」

「はぁ?」

 所在なさげに指を遊びながら、上目遣いに言われた言葉に犬夜叉はさらに首を傾げた。
 今更、何を言っているのだ。
 これまで何かと理由をつけては、否、理由などなくとも散々にいじって遊んでおいて。
 それを今になって許しを得ようとするなどと。

「なんだよ、今更」

 犬夜叉がそう訊ねれば、かごめは求め請うような視線はそのままに、唇を少しばかりへの字に曲げて見せた。

「だってこの間、犬夜叉言ったじゃない。いい加減にしろ≠チて」

 ほんのり膨らんだ頬を見ながら、犬夜叉ははて、と記憶と辿る。
 思えばここひと月ほどの間だろうか。
 それまで毎日のように触れていた耳に、かごめが手を伸ばさなくなったのは。
 犬夜叉が記憶の糸を手繰り寄せていると、かごめは更に眉尻を下げて見せた。

「確かにあの時は私もいじりすぎちゃったし……それにもしかして痛かったかなぁって」

 まさか。かごめに触れられて痛いなど、感じたこともない。
 それよりも弥勒のところの双児のほうだ。
 よじ登っては口に含み、摘んでは引っ張ってと、まるでおもちゃを扱うかのようで辟易することもあるほどだ。
 それと比べてはなんだが、かごめに触れられることはむしろ気持ちがいい。
 その細く柔らかな指が線を辿り、毛並みを整えるように撫でては、愛らしい声が耳奥へと響いてくる。
 安らかな海の底まで、身を沈めるような感覚。
 けれども、それだけでは足りないこともある。
 もちろん幸せが身体の隅々にまでいきわたるような、そんなひとときもいいのだが、触れられているうちにそわ、と沸き立つものもある。
 まだ、もうちょっと、あと少し、と頭上から手を離さないかごめに深々ため息を吐きながら、確かにそう言い放った気がすると、犬夜叉はふと記憶の糸を繋いだ。
 別に怒ったわけでもないのだが、思えば少し不機嫌さを滲ませていたかもしれない。

「いや、別にいいけどよ……」

 ふつりと沸いた欲の末の言葉だった。
 それをこうも気にしていたとは……。
 下がった眉に僅かな申し訳なさを抱きながら犬夜叉が頷けば、落ち込んだ瞳は一変、ぱぁと輝いた。
 

 滑らかな毛並みはまるで上質な天鵞絨に触れているかのように柔らかい。
 被毛に指を埋めながら軽く動かせば、それは自在に形を変えた。
 優しく折り畳んでみたり、摘んでみたり。
 思い出されるのは、現代でよく食べたあの食べ物だ。
 あの皮をいくつか重ねたような柔らかさと弾力。
 さらりとした滑らかさも似ているかもしれない。
 そんなことを考えつつ、流れる毛並みを撫でながら、かごめはほぅとため息をついた。

「あー……癒される……」

「……」

 犬夜叉はかごめが享受する癒しとやらに、ぼんやりと身を任せていた。
 頭上で聞こえる恍惚とした息の音に、柔らかな細い指の感触。
 時折、脱力し頭に凭れる頬の感触に、背に当たる豊かなふたつの膨らみ。
 かごめの柔さも温もりも、声も匂いも、いつもより近い気がする。
 抱きしめて腕の中に納めておくのも、抱かれて柔らかな膨らみに顔を埋めるのもいいのだが、こうして背を華奢な身体に預けるのもいいものだ。
 姿は見えぬというのに、やたらと安心する。
(こういうのも、たまにはいいかもな……)
 日脚が伸びても空が暮れていくのはまだまだ早い。
 あっという間に沈んでいく夕陽の影を格子窓の隙間から眺める。
 寄り添うふたつの影はやがて夕闇に飲まれるだろう。
 緩やかで微睡むようなひととき。
 ぽつりぽつりとかごめの話す声が家内に響く。
 犬夜叉はそれに返事をしながら、ひとつ欠伸を零した。

「ねぇ、犬夜叉の耳、前よりふわふわね」

「そうか?」

「うん。やっぱり寒いと冬毛に変わるのかしら? うちの近所の犬も寒くなるともふもふしてたのよねぇ」

 いくら微睡むようなひとときとはいえ、聞き捨てならない一言だ。

「お前な……」

 自らの夫を犬扱いとは何事だ。
 いくら惚れているとはいえ、やはり腹は立つ。
 けれどもここで吠えたところで、風に舞う雪のように流されるだけだとも知っている。
 何よりもそれをしないのは頭上で耳を弄り倒すかごめが、随分と心地良さそうにしているし、犬夜叉自身もその安らぎに身を任せていたからに他ならなかった。
 薄が揺れて燃えるような夕陽の秋を過ぎ、雪のちらつく冬になれば、人の肌は容易に震えて身体を蝕む。
 あちらの村では流行病が、向こうの村では糧が底を尽きて。
 それは犬夜叉たちの住まうこの村でも珍しいことではなく、熱が下がらぬ者もいれば咳が止まぬ、息ができぬと喘ぐ者もいた。
 そのひとつひとつをかごめと楓は世話をして回っていた。
 かごめの知る遠いところの知恵もあり、その大半は快方へと向かってはいたが、日々早朝から夕刻すぎまで駆け回り、床に就けば幾つも数えることなく寝息が聞こえる。
 そんなかごめの姿に犬夜叉は心を砕いていた。
 あといくつかすれば、緑芽吹く季節がやってくる。
 春の淡い香りはまだ遠いが、やがて犬夜叉の鼻を擽りにくる。
 そうともなればこの華奢な身体は、籠を抱えながら薬草積みに勤しむのだろう。
 寒さの緩んだ束の間のこのときは、夫婦の貴重な時間でもあった。

「なぁ、明日も早ぇのか?」

 背中の温もりにあのときと同じようにふつ、と欲が湧く。

「それがね、明日はゆっくりでいいって」

「そうか」

 輝く眼の奥底の妖しげな揺らめきに、かごめは露ほども気づかない。
 無邪気な答えに犬夜叉は眼を細めると、柔らかな身体をその腕に囲った。
 溶けるようにしてひとつになりゆく影は、夜に隠れる。
 掻き抱く細腕の中に、犬夜叉は沈んだ。



   ぬるいまどろみ

















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