さらさらと筆の走る音は淀みなく流れる。
そこにはもう、以前までの迷うような筆の運びはない。
しゃんと伸びた背に、真剣な眼差し。
いつもはゆるりと上がる唇も、今はきゅっと結ばれている。
きっと、しんと冷えてきたこの空気にも、気付いていないだろう。
犬夜叉は囲炉裏を掻きながら、こっそりとひとつため息を零した。
かごめが机上に向かい始めてから、はや幾刻か。
昨日までは楓の蔵から拝借した書物たちを、細い明かりを灯しながら読み耽っていた。
『おやすみなさい』の声を聞いてからも、ぱらりぱらりと紙をめくる音が響いていたのを、犬夜叉は知っている。
昨夜だけではない。
もうここ数日そんな調子だった。
これでは夫婦仲良く睦み合う暇などあったものではない。

「なぁ」

囲炉裏の火を見るふりをしながら、少し伏せた横顔をちらりと見つめ声をかける。

「んー?」

一応、返る声はあるのだ。
ただそれもなんとも気のないものなのだが。
彼女の心はもうずっと、目の前の紙と筆に向いている。
その頭の中でさえ、覚えたての知識で埋め尽くされているのだろう。
きっと犬夜叉が入る隙など、今はない。

「かごめ」

「なぁに?」

名前を呼べども筆を止める素振りもない。
少しばかりこちらへと、目を向けるくらいしてもいいではないかと、とうとう犬夜叉は眉根を寄せた。
真面目で勤勉な彼女のことを、幼い私欲で邪魔をしてはいけないと、手を伸ばそうとしては何度もその指先を手のひらの中に隠してきた。
けれどもそろそろ、それも限界だ。
犬夜叉は火箸を放ると、かごめの元へとにじり寄った。

「なぁ」

そして後ろから包み込むように身体を抱き、細い肩に頭を乗せた。
突然の触れ合いにぴくりと肩が揺れ、薄墨が書く線は震えるように乱れる。
しんと静まり平坦だったかごめの内側を、わずかにでも揺るがせられたことに犬夜叉は申し訳ないとは思いつつも、その奥底ではそっとほくそ笑んだ。
そしてもっと自分へと意識を、想いを傾けてほしいと口を開いた。

「かごめ、ちゅうしようぜ」

そっと静かに、囁くように。
けれどもどこか幼げに。
さらさらと墨が文字を成すその線を追っていた瞳は、すぐ真横の犬夜叉をようやく映した。
拗ねた眼をしたその奥の、いたずらげな色めき。
わずかに突き出た口許が子どもっぽさを醸し出す。
加えてちゅう≠ニいうその響き。
それなりの時間を共に過ごし、誰も知らない犬夜叉の姿を知っているかごめでさえ、まさかそんな言葉がその口から出てこようとは、想像さえもしなかった。
そういえばここ最近、夫婦らしい触れ合いなどいくらもしていない。
どこか物欲しげに見つめる視線にも、戸惑いがちな指先にも、なんとなく気付いてはいた。
けれども犬夜叉との、これから先のことを考えたら、まだまだ浅学な自らを、なんとかすることの方が先決だと思ったのだ。
身体を抱く手のひらが、想像よりもずっと熱い。
この人の手はこんなにも熱かっただろうか。
愛しい人の手の熱さえ忘れてしまうとは――――。
それでは、あの可愛らしい言葉を紡いだ唇は、どんな温度だっただろうか。
どんな柔さで、どれほどの湿り気を帯びていただろうか――――
幼げな口許からようやく視線を反らすと、煌と輝く眼とぶつかった。
かごめはそれに囚われきる前に、軽く目蓋を伏せ、躊躇いながらも小さな声で呟いた。

「……一回だけよ」

流されてはいけない。今はまだ。
せめて、あと少しだけ。
けれども想像した唇に、身体に触れる熱さに、意識の大半をあっという間に奪われてしまった。

「一回だけな」

目論みが成功したとばかりに犬夜叉は眦を垂らす。
かごめが頷けば聞こえる愉しげな声色が可愛らしくて、少しばかり悔しい。
それなのにかごめの心はもどかしげに、そわそわと浮き立つ。
仄かに熱くなる身体は犬夜叉の熱が伝染ったようだ。

「少しだけなんだからね」

「少しだけ、な?」

それを誤魔化すように今度はかごめが拗ねてみせる。
軽く突き出した唇も、わざとらしく吊り上げた眦も、滲むように染まった頬も誘うためではないのだ。決して。
ただ――――

「……今は、」

「あぁ、今は、な」

きっと触れた唇には、ほんの少しも抗うことなどできない。
筆を置く音が静かに響く。
無骨な手が頬を包む。
ゆっくりと睫毛が影を落とす。
かごめは合わせた唇に心囚われながら、どこか遠くでぱちと爆ぜる火の音を聞いた。



   そんなかわいい甘え方



















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