誰かの腹が音を鳴らしたのをきっかけに、桂の木の下に腰を下ろし、各々がかごめが持ってきたおにぎりにかぶりついたのは、つい四半刻ほど前のこと。
 犬夜叉はその手には小さなおにぎりをみっつと、合わせて出された卵焼きやらウインナーやらも全てぺろりと平らげた。
 そして膨れた腹をさするや否やさて、と立ち上がろうとすると、それをかごめは裾を引っ張り呼び止めた。

 「え、もう行くの?食べたばかりじゃない。少し休みましょう」

 「あぁ?んなゆっくりしてる暇ねぇだろ」

 「いいじゃない。ね?ほら、座って」

 眉根を寄せるが、共に昼餉を摂っていた面々も茶を啜りながら無言で肯く。
 それに犬夜叉は口元をお決まりのようにへの字に曲げて、『少しだけだからな』と再びかごめの横に腰を下ろした。
 懐手を組み、ひとつ吐いたため息は不機嫌そのものだ。
 けれどもちらりと見た横顔がふわりと笑んでいるものだから、それにすっかり心絆されて犬夜叉は眉間のしわをそっと緩めた。
 ふと見上げれば秋の高い空はどこまでも蒼く抜けている。
 犬夜叉たちの来た方向から連なり羽ばたく鳥たちは、遠い山間へと消えていく。
 それが小さな米粒のような大きさになるまでぼぅっと見つめていると、ついと袖を引かれ名前を呼ばれた。

 「犬夜叉」

 「んあ?」

 先ほどまで眉根を寄せていたのが嘘のような腑抜けた声が、緩んだ口元からこぼれ落ちる。
 気付けば目の前で茶を啜っていた弥勒や珊瑚はふたり連れ合い、少し離れたところでのんびりと色づき始めた山を眺め、そのすぐ側では七宝と雲母が腹ごなしにか戯れていた。
 間近の動きに気付かぬほどに呆けていたのかと、犬夜叉が顔を引き締めると、かごめはくすりと声を漏らしてぽんと膝を叩いた。

 「……なんだよ」

 「膝枕してあげる」

 「んなっ……んなもんいらねぇよっ」

 そんなもの、とは言うものの、その心地よさは誰よりも知っている。
 ふわりと漂う優しい匂いに、柔らかで温かな弾力。
 髪を梳く指先はどこまでも愛おしげで、頭上の声はそっと鼓膜を震わせ心を撫でる。
 犬夜叉は頭に浮かべたそれらに後ろ髪ひかれながら、ぷいと顔を背けた。
 いつもであれば、もうひと推し、ふた押ししてくるはずだ。
 なんならかごめの手によって、その膝に頭を横たえることもあるはずなのだが――――

 「ふーん、そ。久しぶりに、と思ったんだけど。残念」

 返ってきたのは、なんとも素っ気ない言葉だった。
 犬夜叉はあっさりと身を引くかごめをちらりと見遣る。
 すでに彼女は興味をなくしたように黄色い荷の中から、薄汚れた参考書を取り出していた。
 例えば――――例えば、ここがかごめの部屋なら。
 ふたりしかいない小屋の中なら。
 こうも躊躇うことなどなかっただろう。
 少なくとも『いらねぇ』などとは言わないし、もしかしたらかごめだってこんなにも簡単に諦めることなどなかったのかもしれない。
 袖の中で懐手を組んだ手のひらをぎゅっと握る。
 その内に珍しく汗など掻いて。
 そしていつになくきつく眉根を寄せると、犬夜叉は背けた顔のまま呟くように言い零した。

 「……別に、そこまでいうなら、してやらなくもねぇが……」

 渋々ながらといった口調と、それに反した赤い頬。
 ぶつぶつと何かを呟く唇は尖っていて、その幼さにかごめはそっと微笑むと、もう一度膝を叩いた。

 少し冷たい風が色づき始めた葉を揺らす。
 膝の上から眺める空は、先ほどよりも蒼い気がした。
 銀糸を梳る指先は、時折遊ぶように毛先を絡める。
 聞いたことのない鼻唄が耳に触れる。
 胸の奥のなんとも言えぬこそばゆさは鳴りを潜めた。
 代わりの穏やかさに、うつらと目蓋を揺るかしながら、ふと見た睫毛の曲線が陽に透け輝いている。
 頬の線は秋の空気に溶け、ゆるりと上がった唇はふっくらと甘そうだ。
 その瑞々しさから、目が離せない。
 つい今しがたまでの眠気など、どこか遠くへ消え失せた。
 犬夜叉が風に揺れる赤いスカーフをくいと引くと、半ば伏せていた目蓋が持ち上がる。
 そして物言わぬ琥珀の眼を濃茶の瞳がその中に映した。

 「どうしたの?」

 かごめは見たことのない眼の色に、こてりと首を傾げる。

 その幼げな表情に、犬夜叉ははっと色を戻した。

 「……なんでもねぇ」

 犬夜叉はただそうとだけ口にすると、隠した色を胸の奥に宿しながら目蓋を伏せた。

   *   *   *

 落葉の甘い香りがする。
 犬夜叉の鼻先に落ちた黄色く鮮やかに色づく一枚を、かごめはそっと拾い上げる。

 「犬夜叉のことが好きみたい」

 かごめは『ほら、ハート形』と微笑みながら、指先でくるりと葉を回した。
 それに犬夜叉もふ、と口元を緩めて、その表情を視線で辿る。
 なだらかに上がった睫毛の先に、陽に透ける頬の線。
 あのとき髪を梳いていた指先は、今は葉を遊んでいる。
 そのふっくらとした唇には、もう何度も触れた。
 犬夜叉はじっと見つめる琥珀の眼に、あのとき宿した色を乗せる。
 そして綺麗に結われた胸紐に指をかけ、そっと引けば変わらない濃茶の瞳がそれを映し微笑んだ。

 「あまえんぼ」

 首を傾げる幼さは、今はない。

 「うるせぇ」

 愛おしげに目蓋が伏せゆく。
 犬夜叉の指先が、溶けた頬の線を辿る。
 ちらりと見えた眼の端で、高く蒼い空を見た。




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