「昨日はね、ハグの日だったから」 「はぐの日?」 軽快に響く野菜を切る音に、ふわりと香る味噌の匂い。 久しぶりに皆で夕餉を食べようと珊瑚と共に厨に立ちながら、かごめは昨夜犬夜叉に話したことをぽつりと言い零した。 ふつふつと沸く鍋を掻き回しながら首を傾げる珊瑚に、昨日の夫の姿を思い出し、くすりと微笑む。 「ハグの日ってね――――」 燦々と陽の差すこの季節はやはりいつの時代も暑いものだ。 火を扱えば尚のこと。 額や首筋に滲んだ汗を拭いながら、ハグの日が何たるかを聞いた珊瑚は『へぇ』と興味深げな声を上げながら、次いでにやりと揶揄うように目尻を垂らした。 「で、したのかい?かごめちゃんは」 そうつつかれてしまって、かごめは途端にぽっと頬を染める。 ふたり過ごす時間はもう飽きるほどだろうに、まだまだ初々しさの残る姿は珊瑚の目から見ても可愛らしい。 これでは犬夜叉が惚けるのも仕方がないと、言葉よりも何よりも昨夜の様子を雄弁に語るそれに、珊瑚は『ご馳走様』とまた笑った。 「それにしてもかごめちゃんの国は面白いね。 抱き合う日を決めてるんだろ?そもそも暦なんてそんなに細かく気にしたこともなかったしなぁ」 「そうよねぇ。まぁ何かの記念日っていうのもあるんだけど、語呂合わせなんかも多くて」 「そしたらさ、今日は何の日なんだい?」 「えーと、八月十日でしょ……んー、鳩の日、宿の日、あとは……」 「野獣、なんていうのもあるのではないですか?」 突如聞こえた声に振り向けば、子を三人連れながら弥勒が上がり框に腰をかけていた。 「いやはや、かごめ様の国は相変わらず興味深い」 かつて旅をしていたあの頃、かごめが読み込む教科書に一番興味を示したのは弥勒だった。 元より学のある人だ。一部の教科ではその聡明さに助けられることも度々あった。 今でも時折、こうして向こうの話をすれば興味深そうに耳を傾ける姿は変わらない。 「野獣の日かぁ。あるかはわからないけど面白いわね」 かごめが布巾を絞りながらそう返せば、弥勒は今までの相好とは少し違う、何か含んだ表情を見せる。 そしてまるで、今この場にはいない誰かに聞かせるようにして言った。 「お気をつけくだされ。どこぞの野獣が狙っているとも限りませんからなぁ」 そよぐ風が筵を揺らし、笑う声を外まで届ける。 側に聳える木の上では同じ風に吹かれながら、むず痒そうに獣耳がはたと揺れた。 * * * 賑やかしい時間を過ごしながら、空が金を帯びた橙に染まり始める頃。 珊瑚の抱いた乳飲み子が少しばかりぐずりながら、やがて穏やかな寝息を立て始めた。 それを微笑ましく見ながら夕餉を綺麗に腹の中に納めると、次いでは双児が父の両膝を枕代わりに目を擦る。 すやすやと夢を見る三人の子を見ながら、ちらりと覗いた空の色に楽しい時間はまた今度と、犬夜叉とかごめは帰路に着いた。 少し遠回りをしながら、夜風に吹かれていたのは半刻ほど前。 とっぷりとした深い夜に、たくさんの星々がちらちらと瞬く。 格子窓から透ける空の模様を鏡越しに見ながら、隅で灯した明かりを頼りに、かごめはゆったりと髪を梳っていた。 久しぶりに過ごした楽しい時間は、心に余韻を残し柔らかな頬を綻ばせる。 「かごめ、布団敷けたぞ」 「ありがとう」 ひとつ礼を言いながら髪を梳かし続けていると、背後でぎしりと床板が軋んだ。 鏡が写す薄明かりがふと翳り、気づいたときには犬夜叉のがっしりとした両腕がしかと絡みついていた。 「犬夜叉?」 「……」 呼んだ名前に応える声はない。 代わりに綺麗に梳った黒髪を縫って、ひやりとした鼻先が首筋を擽る。 それにひくりと肌を震わせると、今度は熱い舌先が首の根から背中をそっと辿った。 「ちょっ、犬夜叉っ」 慌てて身を捩れども絡む腕の中からは這い出すこともできない。 崩れた襟元を直そうにも、くいと後ろへ引かれて白い肌がまろび出た。 犬夜叉はまだ襦袢に隠れた膨らみを包み込み、華奢な肩に柔く歯を立てながら、その丸みを確かめるように舐る。 すると色づき始めた唇からは熱く吐息が零れた。 肌が震える度に漂う香りは濃く甘い。 犬夜叉はそれに満足しながら熱の灯り始めた身体を膝の上に抱え、とろりと潤んだ瞳ににやりと笑った。 「今日は野獣の日なんだろ?」 ぎらりと光る眼は鋭くて、呑まれてしまいそうだ。 かごめの中に灯された欲は、じわじわと内側を侵す。 せっかく敷いた布団だとか、まだ灯る明かりだとか、放られてしまった櫛だとか。 今はもう、すべていいからと、細い指が犬夜叉の項を撫でた。 それに震えた犬夜叉が愉しそうに唇を舐めずる。 ちらりと見えた長い舌と大きな牙に、食べられちゃう、と思いながら、合わせた唇の端ではぷつりと皮膚が弾けて鉄の味がした。 彼女の獣 ハグの日の続き。8/10 野獣の日。 |