「今日はハグの日なのよ」

 「はぐ?」

 聞き慣れぬ言葉に犬夜叉が首を傾げたのは、うっすらと夜の帳が降り始めた頃だった。
 まだ陽の気配の残るなか、乾き始めた髪を梳りながらかごめは言った。
 その髪先から漂う湯の匂いに、犬夜叉はどきりと胸を鳴らす。
 汗を掻き、土に塗れることも多いこの季節。
 かごめは今までよりも頻繁に湯浴みや川での行水をねだった。
 そんな毎日のように身綺麗にしなくてもよいのではないか――――などと思わなくはないが、かごめの国ではそれが当たり前だったと言うし、彼女の数少ないお願いを否という理由も何も犬夜叉にはなかった。
 ここ最近ではねだられる前に犬夜叉自ら声をかけるくらいだ。
 もちろん今日も可愛い妻のために、森の向こうにある湯へいそいそと連れていった。
 気持ちよさそうな声をあげるかごめを背に、理性と本能の犇めき合うなかで、ちらりと見えた肌の色を思い出す。
 内側の熱が透けるようなそれは、夜の色と同じだった。
 彼女を隠すように立つ湯けむりも相まって、何か見てはいけないものを見ているようで。
 時折、弥勒が見せるそういう絵には一寸たりとも心動くことはないが、僅かに見えた肌だけであんなにも身体が熱くなる。
 犬夜叉はつい先ほどのことを思い出しながら少しばかり惚けた顔で、先に言われた言葉のことなどもう遠くへと放りかけていた。
 そんな夫の様を知ってか知らずか、かごめはおもむろに抱きついた。

 「っ!」

 「こうすることよ」

 細腕がぎゅうと背に回り、湯上りの体温が衣越しにも柔らかく犬夜叉を包む。

 「今日はね、たくさん抱きしめ合う日なの」

 突然のことに目を丸くする犬夜叉に、かごめは少しばかり照れたように微笑みかけた。
 薄く紅を刷いたような頬は湯のせいだけではないだろう。
 湯が流したはずの彼女の匂いは、いつもより強く濃く香る。
 匂いも柔らかさも彼女の声も、何もかも愛しすぎて眩暈がする。

 「そうか」

 犬夜叉は小さな身体を膝の中へと招き入れると、頬を擦り合わせながらありったけの想いを込めて抱きしめた。

 *   *   *

 そんなふうにして過ごしていたのは二刻ほど前。
 少しばかりふっくらとした弓張月は先ほどよりも煌々と空を照らしていた。
 あの後、互いにじゃれ合うように抱きしめあって、柔らかく唇なんかも吸ってみて、戯れとばかりに肌を撫でたりもした。
 その度に『もうっ、』とか『だーめ』などと可愛らしく流されて、沸々とした欲にいよいよ耐え切れなくなった犬夜叉が、熱い指で細い背をなぞった。
 けれどもそれも『今日はこうしてたいの。だめ?』なとど上目遣いに言われては、思考する間もなく頷くしかなかった。
 そうしてそのまま抱きしめ合いながら、ふと気づけばかごめは腕の中で寝息を立てていた。
 こうしてたい、などとは言いつつもその先を僅かにも期待していた犬夜叉はがっくりと肩を落とし、泣く泣く布団に身体を横たえたのだった。


 「ったく、ひでぇよなぁ」

 あんなにも甘い時間を過ごしながら、気づけばおやすみも言わずに眠ってしまうなど。
 夢の中にいながらも項に絡んだ細腕は緩むことはない。
 今ここに、もたげた欲の行き場がないことなど重々承知している。

 「明日は覚悟しておけよ」

 ふっくらとした両の頬を軽く押し潰すと眉根が小さく歪んだ。

 「んん、」

 起こしてしまっただろうかと手を緩めるが、犬夜叉の心配を他所に少しばかり乱れながらも健やかな寝息は途切れることはなかった。
 それを残念に思いながらも、代わりとばかりに寄せられた身体にまた愛しさが浮かぶ。
 さらりとした髪を避けながら白い額に口づける。
 そして柔らかく沿う身体をぎゅう、と抱きしめて、犬夜叉はゆったりと目蓋を閉じた。



   翻弄されたい


8/9 ハグの日に。










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