柔らかく秋の匂いを含み始めた空気がふわりと漂う。
長閑な陽射しは温かく、少し乾いた風が白い額に伝う汗を攫っていく。
まだ鮮やかな緑を残しながら、木々がほのかに色づく、薄陽が照らす森の中にかごめはいた。
穏やかにさらさらと流れる風に乗って、呼ばれた気がしたのだ。
静寂の中にある、悲痛に満ちた何かに。
跳ねるように面を上げても、辺りはいつもと変わらぬ風景だった。
けれども喉を引き絞られるほどの切なさが、身体中に犇めいている。
焦燥がざわざわと胸を侵す。
気づかぬふりなど、できるはずもない。
かごめはいても立ってもいられずに、草履もまともに履かぬまま家を飛び出したのだった。

***

短く切れる息を整えながら、歩を緩める。
生い茂る草花に素足を擽られながら、向かう先は決まっていた。
目印ひとつない森の中を、迷うことなく真っ直ぐに。
目指すのは何度も数え切れぬほどに訪れたそこだ。
傷のついた巨木を――――先の時代のご神木を見つめながら通り過ぎた先に、それはあった。
緑生い茂る森の中でぽっかりと拓けたそこには、柔らかな日差しが降り注ぐ。
雨風に曝された木枠は色濃く毛羽立ち、周りには蔦を絡ませている。
早朝に降った秋雨が、絡む蔦の先をきらきらと輝かせていた。
最後に来たときから、どれほど経っただろうか。
あんなにも通うようにして来ていたはずだったのに、ここ最近ではめっきり足を運ばなくなってしまった。
以前と変わらぬ様子の古井戸は、もう今は何ひとつ語ろうとはしない。
かごめは深く息を吐くと、そっとそこへと足を進めた。
切なさはまだ胸を締めつける。
喘ぐような焦燥もそのままだ。
駆けていきたい気持ちを抑えながら、恐る恐るゆっくりと真四角の中を覗き込んだ。
けれども薄く陽が差す底は何も見えない。
暗がりにあるのは何の変哲もない土壁だけだ。

「っ……」

何も、ない――――そうわずかに安堵した瞬間、いつの間にか呼吸まで止まっていたことに気づく。
かごめはまだざわめく胸を押さえながら、細くゆっくりと息を吐いた。
まさか、気のせいだったのだろうか。
悲痛も切なさも、何もかも。
(そんなはず、ない……)
確かに聞こえたのだ。感じたのだ。
かごめは眉を歪めながらもう一度、今度は奥底までしかと見ようと身を乗り出した。
途端、脱げかけた草履が草花に滑ると、かごめは短い悲鳴を残して古井戸の中へと落ちていった。


睫毛がふるりと震えた後、緩慢に目蓋が持ち上がる。

「ん……」

ゆっくりと目を開けども、映るものは光ひとつない闇だ。
まるで彼の宝玉の中のような暗さに、かごめは震え、ひゅっと鳴る自らの息の音を聞いた。
されども、まさかと思ったその拍子に、手のひらが土底を擦る。
そのざらりとした感触に、途端に安堵を覚えると、かごめは心を落ち着けた。
(そうだった……)
何かに呼ばれた気がして、覗き見た井戸に落ちたのだった。
思い出してしまえば急に辺りが見えてくる。
所々に感じる痛みも。
落ちたときに打ったのだろう、少しばかり痛む腰を摩りながら、かごめは立ち上がり空を見上げた。
光ひとつない闇だと思ったが、よく見れば真四角の向こう側には空が見える。
あの時見えた青空ではない。
とっぷりと墨を流し入れたような空だ。
その中できらきらと輝く星は、いつもより強く瞬いている。
井戸を訪れたのは、まだ夕陽も見ぬ頃であった。
どれほどの間、気を失っていたのだろうか。
(犬夜叉、心配してるよね)
かごめの姿が見えぬとあらば、すぐさま駆けだす彼のことだ。
きっと今頃、方々へと駆け回っているに違いない。
早く帰って謝らねば、とかごめは垂れ落ちる蔦に手をかけた。
所々の痛みを堪えながら、井戸の中から這い出れば森は闇夜に包まれていた。
見上げた空に星は瞬けども、月はない。

「今日、朔だっけ……」

これでは犬夜叉のご自慢の鼻が利くはずもない。
そもそも人の姿で駆け回るなど、させてはいけない。
朔の夜の彼は、どうにも危なっかしい。
広い背中はいつもと変わらないはずなのに、いつも以上に守りたくなってしまう。
妖からも人からも、夜からでさえ。
犬夜叉の安寧を脅かす、何もかもから。
先ほどまでの胸騒ぎはまだ消えない。
けれども、一刻も早く帰って犬夜叉の側にもいたい。
迷いつつも真っ暗な帰り道に目を向ける。
すると、あることに気づいた。
心做しか、かごめの知る森の雰囲気とは違うのだ。
明確に何が、とは言えないが。
月のない夜がそう見せるのだろうか。
ただ、胸にかかる晴れない靄のような感覚が、ここは違うのだと伝えている。
不安が胸を覆う。
かごめは警戒しながら、ゆっくりと辺りを見回した。
さらさらと夜風が葉を揺らす音が静かに聞こえる。
妖の気配はないとわかっても、気を抜くことはできなかった。
何せ弓も何も持たぬのだ。
例え獣一匹だとしても、襲われでもしたら、ひとたまりもない。
(弓矢、持ってくればよかった……)
今更、後悔せども仕方ないが、そう思わずにはいられない。
と、そのとき、静かな森の奥で細枝が折れる音が響いた。
背筋に走る緊張にかごめは身を固くしながら、はっとそちらへ目を向ける。
肌がぴりつくほどに気を張り巡らせ、気配を探る。
息を殺しうるさく騒ぎ立てる心臓の音を耳の真横で聞きながら、かごめはそろりと足を踏み出した。
焦れるほどにゆっくりと、草や土を踏む微かな音すら立てぬよう。
生い茂る緑に身を隠し、木々の隙間からそちらを見遣る。
視線ひとつにすら気を遣うなど、いつぶりだろうか。
夜闇に慣れ始めた目を細めて、暗がりの奥を見つめる。
人の手の入らない、自由に聳え立つ木の根元に、丸く小さな影が見えた。
動物だろうか、と思いはしたものの、それにしては大きい。
かごめはもう一歩踏み出して、眉を寄せながら目を凝らす。
木々が透かすささやかな星明りの下、夜に溶ける影の輪郭が徐々に露わになる。
その姿に、かごめははっと息を飲んだ。
人である。
小さな少年だ。
しかも見知らぬ子どもではない。
彼が纏う、夜に霞む衣の色を、かごめは誰よりもよく知っていた。
今はほの暗く見えるそれは、常であれば燃えるように鮮やかな緋色をしているはずだ。
雰囲気を変えた森に、緋衣を纏う少年。
月夜に輝く銀糸はなくて、夜に紛れる黒髪に時折、星が落ちる。
(どういう、こと……?)
夢なのだろうか。
自分はまだ、あの古井戸の底で気を失っているのだろうか。
いや、もしかしたら、何かに呼ばれたあのときから――――
そうは思いつつも、ひゅうと吹いた風が冷たくかごめの頬を掠めた。
さわさわと揺れる草花が足を擽る感覚も、隠れた樹木のささくれの硬さも、遠くで鳴く梟の声もすべて確かなものだ。
それに五感へと訴えかける感覚よりも何よりも、第六感が時空を越えたのだと教えていた。
そう理解するのに、時間はいらなかった。
目の前の少年は、愛しい彼の幼い頃なのだ。
まださした力も持たず、日々を、一瞬先を生きることを考えて身を窶してきた頃の。
きっと、かごめの存在を知られてはいけない。
話しかけるなど以ての外だ。
けれども、だけれども――――闇夜に震え蹲る犬夜叉がいると知って、立ち去ることができるはずもない。
あの丸い背中を、冷えているであろう身体を抱きしめたい。
いけないと制する理性と、それを振りほどこうとする心がせめぎ合う。
かごめは大きく脈打つ胸を抑えるように、手のひらを握りしめると、そっと一歩を踏み出した。
さくりと踏んだ草の音に、犬夜叉は鋭敏に反応する。
振り向きざまにかち合った瞳が、黒く震えて威嚇する。
今はない牙を剥き出しにする姿は、仔犬のようだ。
畏れは奥に隠される。

「あの、どうしたの?」

「……」

話しかけども、鋭い眼も張り詰めた空気も一寸たりとも緩まない。
小さく一歩近づけば、同じように一歩後ずさる。
じりじりとした空気が、喉奥に異物のように纏わりつく。
敵意はないと眉を下げてみせたところで、幼い犬夜叉がそれで気を許すはずもない。
かごめは慎重に言葉を、声を選びながら口を開いた。

「あのね、私、迷子になっちゃったの……夜だし暗くて、怖くて……。お願い、一緒にいてくれない?」

猜疑心を隠さない視線は変わらない。
けれどもかごめが困ったように微笑んで見せると、犬夜叉は戸惑いに瞳を揺らした。
暫しの間の沈黙が、やたらと永くて重苦しい。
ぴんっと張り詰めた空気に、瞬きすらもまともにできない。
合わせ続けた視線がふ、と外されると犬夜叉は葉擦れの音よりも小さく囁いた。

「……静かにしてろよ」

その一言を諾ととると、かごめ礼を言い少しだけ離れたところに腰を下ろす。
犬夜叉が腰かける、大きな木のいくつにも分かれた根のひとつだ。
間近で見たその顔はやはり愛らしい。
けれども、よくよく見れば土に汚れ、髪は乱れていた。
傷だらけの裸足の足で、何から逃げてきたのだろうか。
幼い横顔は強張り、見えぬ恐怖と必死に戦っている。
それがどうしようもなく切なくて、痛くて、苦しい。
胸が引き絞られ、握り潰されるほどの感情がかごめを襲う。
じわりと涙が浮かびかけたそのとき、犬夜叉が歪めた口を開いた。

「……なんだよ」

「え?」

「じっと見てたろ」

真っ直ぐと、森の奥を見つめる視線は動かぬままだ。
固く結ばれていた口元から、見世物ではないと不機嫌な声がささめく。
その声に、面差しに、抱えた膝に。
夫が時折、ぽつりとつぶやく昔話を思い出し、またきゅうと胸が潰れた。
悲しいのは、つらいのは自分ではないというのに、言葉が出ない。

「え、っと……」

つい、と視線だけを寄越されて、沈黙がただふたりの間を繋ぐ。
そして逡巡する唇からは、躊躇うように言葉が零れ始めた。


訥々と語る言葉を、かごめは静かに聞き入る。
ふたりの声がひっそりと森に溶ける。
粛然と、夜は更けていく。
虫は草の根に隠れて、鳥は目蓋を閉じる。
かごめの胸の内が解れる頃、犬夜叉のその眼も柔らかく色を変え始めていた。
昼間の包み込むような陽射しとは打って変わって、冷たい空気が肌を撫でる。
弱くも吹いた風が衣の隙から忍び込めば、小さな身体はぶるりと震えた。
話す声の合間に隠すように鼻をすする音が混じる。

「寒いね」

「……そうかよ」

井戸の底で感じた肌寒さは、よりはっきりとしんと熱を奪っていく。
かごめがそう声をかけ、衣の奥の冷え始めた身体を抱え込めば、犬夜叉は気まずげに視線を反らした。
素直でないのは、今も昔も変わらないようだ。
いつかの夜の強がる彼を思い出す。
今とてそれは変わらぬが、それでも随分と甘えてくれるようになったのだ。
愛おしさを募らせながら、かごめは膝を抱え小刻みに震える幼子に声を掛けた。

「ね、そっち行ってもいい?」

『寒くって』と甘えるように付け足して、少し眉を下げてみる。

「……勝手にしろ」

躊躇い、吐き捨てるように呟かれたはずなのに、それはどこか恥ずかし気だった。
落ち始めた葉の音を立てながら、そうっとかごめは身を移す。
震える身体の真隣へ、ぴたりと寄り添うように。
触れ合った犬夜叉の右側にだけ、じんわりと熱が灯る。
久しく感じていなかったものだ。

「あったかいね」

笑みも温もりも、柔らかな声も、何もかも。
すべて。
犬夜叉はただ俯くと、気持ちばかり右側へと頭を傾けた。
それは頷くなどできはしない、犬夜叉の精一杯だった。
優しい匂いが人の鼻にも掠めて、胸の底をひたひたと満たしていく。
うつらと、限界を迎えた目蓋が重く静かに伏せていく。
(いけねぇ……)
こんな誰とも知らぬ人間の側で、ましてや妖かもしれぬのに気を緩め、あまつさえ眠ろうなどと。
してはならぬのに、心のどこかが“いいのだ”と赦している。
なぜだろうかと考えることすら億劫だ。
小さな頭が船を漕ぐ。
墨色の瞳が目蓋の奥に隠れゆく。
かごめは真綿を抱くよりも優しくそっと、犬夜叉を抱き寄せた。


犬夜叉は夢を見た。
柔らかな夢だった。
いつか、いつか、と願っては諦めて、けれどもつま先ほどもない希望を捨てきれずにいた願いが叶う夢だった。
(あったけぇ)
ふわりと解けた目蓋。
眠っていたと思い出すよりも先に感じたのは、包み込む細腕だった。
はっと、一瞬で気を張る犬夜叉の眼に映ったのは、木に頭を凭れかけて眠る名も知らぬ女だ。
しかと腕に囲われた身体は、どこも傷つけられなどしていない。
どこかで疑う必要などはないと知りながら、注視してしまう。
それがなぜだか悲しくて、犬夜叉は振り払うように空を見た。
まだ陽はないものの、夜の匂いに朝が混じり始めている。
鋭敏になりつつある感覚がそれを教えていた。
人より鋭い感覚は、人非ざる者の証だ。
自分を抱きしめ眠る女は、どう思うのだろうか。
ぎらりと光る金の眼を、人にはない銀の髪を見て。
尖った牙に、肉を切り裂く爪を見て、恐ろしいと慄くだろうか。
(それとも――――)
抱きしめてくれるだろうか。
今のように、あの夢のように。
鼻の奥がじんと痛む。
犬夜叉は奥歯で苦いものを噛むように顔を歪めると、静かに息を吐き首を振った。
あり得ぬ話だ。
所詮、夢は夢なのだから。

「おい、起きろ」

頭上でまだ船を漕ぐかごめを揺り起こす。
まだ眠たげな目蓋の奥から現れた澄んだ瞳はこげ茶色で、光もないというのになぜだかこれから昇る陽のように眩しい。
犬夜叉は腕の中から抜け出すと、背を向けた。

「そろそろ夜明けだ」

もう行けと、言外に言われた言葉を察すると、かごめは空を見上げた。
まだ暗い空からはひとつ、またひとつと知らぬうちに星が消えているのだろう。
犬夜叉が、また独りに戻っていく。
小さな背中を見つめて、かごめは伸ばしかけた手を握った。
(今はまだ――――)
その背に手を伸ばせない。
伸ばしてはいけないそれが歯痒くて仕方がない。
ただそれでも、もう一度、抱きしめたい。
いけないのだと知りつつも、かごめは最後にぎゅっと犬夜叉の身体を抱きしめた。

「一緒にいてくれてありがとう」

微笑んで、そして小さな耳に唇を寄せた。

「今度は――――」

「え、?」

すぐ近くの微笑みがぼやける。
犬夜叉の耳の奥でくぁんと声が反響する。
言葉の先が聞こえない。
陽も出ていないはずなのに、やたらと眩しい。
ふつりと眦の端が熱く濡れる。
もっと、その姿を見ていたいのに。
もっと、その声を聞いていたいのに。
もっと、一緒にいたいのに。
もっと、もっと――――


ゆらゆらと揺蕩うように意識が浮かび上がり、犬夜叉は目を覚ました。
とても懐かしい夢を見ていた気がする。
柔らかくて温かくて、少しだけ寂しい夢だ。
どんな夢であったのか思い出せないのに、胸が蕩けるほどに温かい。
今宵は月のない夜だというのに。
それもこれも、かごめの腕の中だからだろうか。
いつからだっただろう、朔の夜に包まれるようにして眠るようになったのは。
月のない夜を優しく感じるようになったのは。
(あぁ、そういえば――――)
この温もりを夢の中でも感じていた気がする。
見上げたかごめの薄く開いた唇が、細く静かな息を零す。
なだらかな目蓋の白が、円やかな頬の線が、うすぼんやりと光っている。

「いっしょに……」

犬夜叉は微睡む意識で、ぽつりと呟く。
その声は夜に溶けていく。
かごめの胸元に擦り寄るように身を寄せれば、ただ唯一の匂いと体温が犬夜叉を底深くからひたひたと満たしていく。
とろりとした眠りにまた沈む。
柔らかな夜は、まだ明けない。



   永遠の夜





mskさんからいただいた絵を元に書かせていただきました。
mskさん、ありがとうございました!






















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