かたりと小さく音を立てて、犬夜叉は薄闇を纏う外へ出た。
空気はひやりと冷えていて、吸えば肺腑が澄んでいく。
虫の音すらも聞こえぬ刻下は、夜と言った方が正しいだろう。
空の終わりで滲む陽は、まだここには届かない。

「気を付けてね」

暫し空を見上げていると、すやすやと寝息を立てていたはずの片方の、潜めた声が聞こえた。
振り返り見れば、とろりと眠たげな目のままに、そっと口角を上げた妻と目が合う。
その腕に抱かれた娘はまだ、健やかな寝息を立てている。
――――あぁ、今すぐにでもそこへと戻りたい。
ほんの少し前まで抱いていた温もりは、まだこの手に残っている。
こんなにも後ろ髪を引かれている。
願いとはささやかであればあるほどに、叶うのは難しいものなのだろうか。

「おう」

犬夜叉は掛けられた声に眦を緩めると、ひらりと手を振り駆けだした。

***

犬夜叉と弥勒が忙しなく妖怪退治へと赴くようになったのは、ここ最近のことだ。
ふたりに依頼をした村々は、どこも草の根も生えぬほどに搾り取られる。
けれども、どのような妖もたちまちのうちに片づけてしまう。
阿漕だが腕はいい。
半妖と法師という異色の組み合わせも相まって、評判が評判を呼んだ。
しかも、稀代の巫女様のお膝元とされる村から来ているとあらば、信用しないはずがない。
元よりそこそこあった依頼の数は、見る見るうちに増えていった。
そんなわけでつい昨日までも陽も明けぬ早朝から、とっぷりと空が濃紺に染まるまで働きあげていた。
もちろん本日も例外ではなく――――犬夜叉は今、弥勒と共に、“出る”とされる森の入り口で木の根に腰をかけている。
夏を残した陽射しはまだ眩しく、木々をすり抜け光の粒を地に映す。
風が吹くたびに揺れる薄ら日は、清流の水面のようだ。
その光景にふと犬夜叉は、昨年のちょうど今頃のことを思い出した。
今年よりいくらか涼しい晩夏だった。
まぁ、涼しいとはいえ気持ちばかりで、陽の鋭さが少し和らいだ程度ではあったが。
長々と続いた暑さに辟易しながらぬるい板敷に寝転がっていた犬夜叉は、同じようにだれていたもろはを連れて川へと向かった。
村から離れた、いつかの日にもかごめと過ごしたことのある川だった。
森の深くにあるそこは晩夏ということを忘れるほどに涼しい。
短く袴を上げた足を浅瀬に浸し、つい、と飛ぶ蜻蛉を追いかけるもろはの、高らかな声が耳に甦る。
するりするりと揶揄うように足元で逃げる魚を、楽しげに追い、はしゃぎながら濡れることも構わずに飛沫を上げる。
すぐ側で犬夜叉が『滑るぞ』などと声をかければ、案の定つるりと足を滑らせて尻餅をつく。
きょとりと目を丸くしながらも泣くことなく、そのまま遊び続けるもろはと共に全身ずぶ濡れで帰ると、これまた予想通りにかごめにちくりと小言を言われたのだった。
今年は家族三人で行きたいと思っていたのだが、もうしばらくは難しいだろうか。
なにせこの状況だ。
犬夜叉と弥勒、各々が妻や娘たちの顔をまともに見なくなってから幾日か。
否、正確には見てはいるのだ。寝顔だけは。
ただそれ以外の姿はほとんど見ていない。切ないほどに。
すやすやと安らかに穏やかに眠る表情は、見ているだけでもほっと息を吐き心が解れる。
犬夜叉とて、もう立派な一家の大黒柱なのだ。
これまでに貯め込んだ金はあるし、早々に食うに困ることもなかろうが、金も食糧もあるに越したことはない。
なにより、かごめやもろはには、苦労のひとつもかけたくはないのだ。
なのだから、こうして多くの依頼があることはありがたい。
しかし、如何ともしがたいというのが本音だ。
家族との時間をこんなに削ってまで働くことがいいのかといえば、答えは否である。
弥勒も同様に辟易しているようで、近頃では年若い娘が座する宴も丁重に辞している。
そもそも、なぜこんなにも依頼が多いのか。
妖やら幽霊やら、少しは自重してもらいたいものだ。
しばらくは、などと思ったが、これではすぐに秋が来てしまう。
犬夜叉はそんなことを考えながら、深々とため息を零した。
そして今はひどく憎き妖が現れるという森の奥を吊り上げた眼で睨みつけた。

***

とっぷりと暮れた夜空に瞬く星を見ながら、重たい足を引きずり帰路へ着く。
結局、森に棲まう妖が姿を見せたのは、日が傾き始めた頃だった。
痺れを切らし森へと駆けだそうとする犬夜叉を弥勒は何度も止めながら、ようやく現れた妖には無機質な冷たい笑みを向けていた。
勢いのままに退治をすると、今宵ひと晩と用意された申し出を断り、報酬を担ぎあげ早々と村を後にした。
これしきのことで疲れるはずもない身は、けれども随分と疲弊している。
それもこれも、素直には言えないながらも、気力の源が枯渇しているからだと犬夜叉は分かっていた。
先ほど別れた弥勒も、我が子の顔が見たいだとか、珊瑚を抱きたいだとか、数々の願望を口にしながらため息を吐いていた。
普段であればさらりと流すような言葉も、今であればまったくだと頷ける。
今朝見た、かごめのとろりとした寝起きの顔と、彼女に抱き着きながら眠る娘の姿を思い出す。
自然と早まる歩みは、もう駆けていると言ってもいい。
ようやく見えた我が家の窓や戸の隙間からは、うっすらと灯りが漏れていた。
きっと今夜もかごめが囲炉裏の火を焚きながら、遅い夕餉を用意してくれているのだろう。
いつ帰れるかもわからぬのだ。
彼女の朝も早いのだから早く寝ろと、犬夜叉は何度も言った。
けれども決して首を縦には振らなかった。
その想いに申し訳なさを感じつつも、嬉しさは底を尽きない。
きっと今日も、あの戸を開けばもろはを寝かしつけたすぐ横で、『おかえりなさい』と小さな声が迎えてくれる。
柔らかな笑みとともに。
想像すればあれだけ重たかった身体も、自然に軽くなるのだから不思議なものだ。
犬夜叉は滑りの悪い戸を、そろりとできる限り静かに開く。
開いた戸からは光とともに夕餉やふたりの匂いがふわりと零れて、犬夜叉を温かく包み込んだ。
そしてそれと共に犬夜叉を出迎えたのは、いつものかごめの声ではなく、威勢のいい声と小さな衝撃だった。

「おやじ!おかえり!」

ばたばたと床板を鳴らして、勢いよく駆けてきた小さな身体は犬夜叉に抱き着く。

「なっ、もろはっ」

思わず犬夜叉の眼は丸くなる。
すでに夢の中にいるはずの娘は、まだきらきらとした目のままに、あっけにとられた表情の父を見上げた。

「おやじ、帰ってきたら“ただいま”だろ」

「あ、あぁ……ただいま」

勝気な瞳で犬夜叉を窘める姿がどこかかごめに似てきたな、などと思いながら小さな頭を撫でる。
満足したように細く弧を描く目元が可愛らしい。
犬夜叉は足にしがみついたままのもろはをひょいと抱き上げた。
懐かしい気がしてしまう重さは、知らぬ間にいくらか重たくなったようだ。

「お前、まだ寝てなかったのか」

普段であれば早く寝ろと叱るような時刻だが、今はそんなこと少しも言う気にはなれない。
代わりに少しばかり眉を垂らして表情を緩める。
きっと、かごめも同じだろう。
囲炉裏で鍋をかき混ぜながら、くすくすと笑っている。

「もろはね、犬夜叉のこと待ってるって聞かなくて」

『お昼寝たくさんして待ってたのよ』と、数刻前を思い出す姿はどこか楽しげだ。

「そうか……」

腕の中で足をばたつかせてはしゃぐ姿は、我が娘ながら落ち着きがない。
素足で三和土を踏んだ小さな足裏を、自分のものとともに綺麗に拭うと、犬夜叉は再び抱き上げて膝の上抱えた。
ころころと変わる表情とここ数日の犬夜叉の知らない出来事を、まとまりのない言葉が楽しげに紡ぐ。
もうこんな夜更けだというのに、囲炉裏の火が作る影までやたらと明るい。
出された夕餉はいつもと同じ味なのに、今日はそれがやたらと美味い。
温かさが喉を下りて、胃から臓腑へと染み入るようだ。
無意識に張っていた肩肘から力が抜けていく。
犬夜叉は味わうように夕餉を口にしながら、娘の話に都度頷く。
その横顔は、もう父のそれだ。
ゆるりと上がった口元や優しく細まる眦は、元来の彼の姿なのだろう。
本来であれば幼子がこんな夜も深くに起きているなど窘めるところだが、それをしないのはかごめもそんなひと時を求めていたからだ。
連日の勤めでさすがに犬夜叉の精悍な顔にも疲労が滲んでいる。
心配にはなるものの、柔らかな表情にほっと息を吐く。
そうしてしばらく、久方ぶりの家族の時間を楽しむものの、小さな身体はやはり夜更けには耐えきれないようだった。
きらきらと瞬いていた大きな瞳が、重たい目蓋に隠れ始める。
どうにか抗おうと目を擦る手の動きも覚束ない。
つい今ほどまで高い声を上げていた口元からは、舌足らずな言葉が零れ落ちる。
犬夜叉はその様にふと笑んで、膝を緩やかに揺らしながら背を数回軽く叩く。
それから間もなくして、十と少しの数を数えた頃に、もろはは微かな寝息を立て始めた。

「あら、寝ちゃった?」

火が燻る音が静かに響く。
しん、とした屋内に厨から顔を覗かせたかごめが、小さく声をかけた。

「あぁ、はしゃぎつかれたんだろ」

「そうね。もろは、犬夜叉が帰ってくるの楽しみにしてたから」

「そうか」

ふたりして覗き込んだ愛しい娘は、幸せそうに頬を緩めている。
むにゃむにゃと動く口元は早くも夢の中で駆けまわっているのだろうか。
ほわりと胸が温まる。
瞬きすらも惜しいと、愛娘から目が離せずにいると、ふとかごめが近づく気配がした。

「あと」

密やかに、秘密を伝えるような声色は静かで、けれども犬夜叉の耳にはよく通る。

「私も、ね」

振り向いた口許にそっと唇が落ちる。
味わう間も、目を瞑る間もなく離れた唇が、優しく悪戯げに笑んでいる。
犬夜叉が大きくひとつ瞬くと、かごめはするりとその項に腕を回した。

「おかえりなさい」

寄せた唇の間で声が、息が震え合う。
二度目の口づけは逃さぬようにと頭を支えた。
柔らかく、甘く、少しだけ深く。
ほんの微かな音を立てて離れた唇から吐息が零れる。

「あぁ、ただいま」

額を合わせ、睫毛が絡むような距離で見つめ合う。
もう一度だけ、と唇を重ねながら犬夜叉は、明日こそは早く帰るのだと心に固く決めたのだった。



   なんてことない夜の話



















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