しとしとと降る雨音を聞きながら目覚めた朝は、昨日よりも少し寒い。 絡まる腕から抜け出し、軽く清めた身体に目を遣って、かごめは小さくため息を吐いた。 所々についた赤い痕――――だけならまだいいのだが、ここ最近の彼の癖はどうしたものか。 (やめてって言ったのに……) 憂鬱になりやすい天気の朝は、せめて気分だけでも晴れやかに迎えたい。 胸に覆いかけた雲を無理矢理払うように、かごめは頭を振るう。 そして行李から衣を取り出すと、目の前に広げた。 手にした衣はいつもと変わらぬ巫女服だ。 けれどもそれは、長雨の続く季節の晴れ間に、ようやく洗えたものだった。 汗ばむほどの陽が照った昨日は、まさに洗濯日和だった。 洗い立ての衣や手ぬぐいが、陽の下で風にそよぐ光景は、やはりいつ見ても清々しいものであった。 くったりと柔らかく、かごめの身体に添い始めた衣に袖を通す。 季節柄、多少の湿り気はなくせないものの、さらりと肌を滑る質感が気持ちいい。 ようやく晴れゆく気分にかごめは頬を緩め、同じように洗われた袴を身に着けた。 「っ、」 袴が脚を隠し、いつも通りに腰紐を締めたそのとき、ぴりりとした痛みが肌の上を走った。 見ると先ほどは気づかなかった赤い痕が残っている。 そういえば昨夜はやたらと腰の辺りを舐っていた。 女性らしい円やかなくびれの後ろにくっきりとついた歯型は、そのときにつけられたものだろう。 そこにあると知れば途端に痛み出す噛み痕に、今度は盛大なため息を零しながらかごめは袴の紐を締めた。 「犬夜叉、犬夜叉」 すやすやと眠り続ける夫の枕元に膝をつくと、かごめは眉根を寄せながら肩を揺らした。 幾許かの清々しさなど、降り止まぬ雨と共にどこかへ流れてしまった。 朝だというのに薄暗い室内でも眩しそうに眼を細めるのは、遠く先まで見通せるその瞳だからだろうか。 犬夜叉はひとつ大きく欠伸を零すと、涙の浮かんだ眼をようやく開けた。 「……朝か……」 まだ眠たげな黄金色の眼は、けれども綺麗に澄んでいる。 物足らない明るさの室内で、それは一等、静穏に輝く。 いつもであればうっとりと見惚れてしまう瞳だ。 されども今日は、そう穏やかではいられなかった。 「おはよう、朝よ」 どこか粗雑な、凡そ、朝には似つかわしくない声が、雨音とともに犬夜叉の耳に触れた。 声につられた視線の先では、すでにしっかりと身支度を整えたかごめが、珍しく柳眉を吊り上げている。 それなのに、なぜだか膨れた頬を恥じらうようにほんのりと染めているものだから、犬夜叉は首を傾げた。 「……どうした?」 「どうした、じゃないわよ。あんた、また噛んだでしょ」 犬夜叉が情事のたびに噛み痕を残すようになったのは、いつの頃からだったか。 肌を重ね始めた当初は、ひとつ事を進める毎に不安げに瞳が揺らぎ、抱きしめる腕ですら恐る恐ると力を込めていたというのに。 今となってはそんなしおらしさはどこにもなく、時にはかごめでさえも恥じらうほどに愛おしげに、時には枯渇するものを埋めるように荒々しく肌を求める。 行き過ぎた快楽は苦しいのだと、それを甘受するうちにかごめは知った。 そんなふうにして、互いに理性をすり切らしながら求め合うものだがら、つい勢い余ってしまうこともある。 それが時たまであればいいのだが、ここ最近では噛みつかれない回数を数えた方が早かった。 先の痕が癒えないうちに、またひとつ、ふたつと痕を残される。 本能的な行為は妖である部分をさらけ出すのか。 (それともやっぱり犬だからかしら……) 犬扱いするたびに牙を剥き出しにするものの、こんなことが続いてはそう思いたくもなる。 “待て”ができればいいものの、事の最中は指が滑るだけでも肌が震え、多少の痛みも快楽へとすり替わる。 かごめが気づくのも大概事後であるからして、止めようもないのだ。 そうしてついてしまった噛み癖を直すのは、なかなかに難しい。 かごめがわざとらしく吐いたため息に、犬夜叉は気まずそうに頭を掻いた。 「あー……」 泳ぐ視線はかごめが何に腹を立てているのかを理解している。 「噛まないでって言ったでしょ」 「……わりぃ」 腰に手をあて、頬を膨らませ、怒りを分かりやすく体現すると、犬夜叉は頭上の耳をぺたりと伏せた。 ありもしない尻尾までへたりと活気をなくすような姿に、かごめは思わず怒りを飲み下すしかない。 普段の勝気な態度は鳴りを潜めて、まるで捨て犬のような姿を見せられては、これ以上強く言うこともできない。 犬夜叉もそれを分かってやっているかと思わなくもないが、かごめとしてはそれに丸め込まれるしかないわけで。 「……次噛んだら、当分しないからね」 とはいえただで負けるわけにもいかずに、“おあずけ”を言い渡す。 一瞬、犬夜叉は不満を浮かべはしたものの、せめてもの妥協点を譲ることはできない。 犬夜叉に文句を言うことなどできるはずもなく、出された要求に渋々頷くと、かごめはようやく怒りを収めた。 「悪かった」 するりと腰に腕を巻き付けると、犬夜叉はそのままかごめを膝の上に抱える。 そしてつり上がっていた目尻に軽く唇を落として、更に許しを乞うように頬を摺り寄せた。 「もういいわ」 まるで悪戯を叱られた仔犬のようだ。 かごめが許しを与えると、身体に絡まる腕は力を増す。 ぎゅう、と甘えるように抱きしめられて、思わず眉を下げ笑んでしまう。 周囲は犬夜叉をかごめには甘いだの、べた惚れだのというが、かごめ自身も大概だ。 なんだかんだ多少の悪戯や我儘も許してしまうほどには好きなのだから仕方ない。 互いに、惚れた弱みというやつか。 自分でも少し、呆れてしまう。 そんなことを考えながらかごめがひと息つくと、犬夜叉は小さな頭に唇を寄せた。 そして癒すように腰の噛み痕を撫であげると、微かな痛みに腕の中の身体は震え始める。 「いてぇか……?」 「少しだけね」 「そうか」 長雨の朝、のんびりとしながらかごめは犬夜叉へと身を預ける。 それに犬夜叉は、あぁ、もうすっかり絆されたものだと、笑みを隠す。 傷ひとつつくだけで心を痛めていたものが、欲のままに噛み痕を残すようになったのはいつだったか。 本能に翻弄されるがままに、初めてつけた噛み痕に胸を引き絞られながらも、得も言えぬ感情に満たされたのを思い出す。 勢い余って、ということも嘘ではないが、近頃はそれほど我を忘れてはいない。 いや、理性などとうに捨てているからか。 分かっていて柔肌に歯を立てる。 快楽の合間に、痛みすらもすり替わるように。 きっと、少しずつ変わり始めている身体に、かごめ自身は気づいていない。 白い項の、衣紋に隠れた噛み痕に口づける。 また震えた肌には気づかぬふりをして、少しも止む気配のない雨音に耳を傾ける。 雨が余すことなく地を濡らすように、浸ってしまえばいい。 犬夜叉は自分の匂いを残す髪に擦り寄りながら、所々につけた噛み痕を撫で続けた。 溺れるふたり |