月のない夜だというのに明るい空を、カーテンの隙間からちらりと見上げて、犬夜叉はため息を零した。 朔だ、テストだと理由をつけられ、とどめに弥勒に背を蹴られながら井戸を越えたのは早数刻前。 もう慣れたかごめの家で共に夕餉を囲み、慣れない風呂で泡にまみれ、かごめと同じシャンプーの匂いを纏わせながら、今は一番落ち着く傍にいる。 ふかふかなベッドに横たわり、すやすやと眠る頬をそっと撫でる。 白くて柔くてなめらかで、食んでみたら甘そうだ。 まるで桃のように匂い立つ肌に、ぼんやりと犬夜叉は幾度か指の背を滑らせる。 薄く開いた唇も、無造作に散らかった黒髪も、細く差し込む夜あかりに照らされてきらきら光る。 思わずごくり、と喉を鳴らすと、ふくふくとした唇がんん、と動き、指先が何かを探した。 そして赤い衣に触れたと思うと、それを小さく掴み、安心したように再び寝息を零す。 「――――っっ」 今、自分が何をしようとしていたかなど明白だ。 犬夜叉は熱を帯びた頬をひとり隠すと、深く深く息を吐いた。 もういい加減、思い知ればいいのだ。 内で渦巻く恋情も劣情も、何もかも。 「っ、あ〜〜……」 朝焼けはまだまだ遠い。 犬夜叉はあどけない指先に指を絡ませた。 2020/09/23 04:21 ◇ non title 犬夜叉はへたりとしゃがみ込むと、真っ赤な顔を両手で覆った。 指の隙間から見える瞳までもが熱を持つ。 「ね、ドキドキした?」 かごめはそれを覗き込みながら嬉しそうに笑う。 「…ばぁか、自惚れんな」 本当は、その笑顔すらも眩しいのだ。 (言えねぇ…) ちらりとかごめを見遣ると犬夜叉はまた熱を上げた。 2020/09/23 04:19 ◇ non title 『自惚れないで』と払われた手が行き場もなく宙に浮く。 予想外のかごめの言葉に犬夜叉は目を丸くしながら、さぁと血の気が引くのを感じた。 きっと上がった眦が胸に痛い。 色を失くした犬夜叉の顔を両手で包むと、かごめは頬を膨らませた。 「私、犬夜叉が思ってるより何倍も、あんたのこと大好きなのよ」 2020/09/23 04:18 ◇ non title 「もう!ついてこないで!!」 お決まりの言霊で地に沈められた犬夜叉が、漸く顔を上げたときには、緑のスカートは遠くの方ではためいていた。 「ったく、なんだってぇんだ。かごめのやつ」 小さく悪態をついてみたけれど、切なげな瞳を思い出して犬夜叉は口を噤んだ。 視界の隅では花々が穏やかに揺れる。 別に怒った顔が見たい訳ではない。いつだって花のように笑う彼女が見たい。 胸に湧き上がる想いは、甘くてほんの少しだけ苦い。 犬夜叉は咲いたひとつを摘み取ると、緑のはためく方へと足を踏み出した。 2019/07/01 21:21 ◇ non title 「犬夜叉」 背中をつつき、滑った指が衣越しのそこを弱く引っ掻いた。 「ねぇ」 楽しげな声に呼ばれて渋々振り返ると、犬夜叉の気持ちも、言うことも、することも、もうすべて分かっているとでも言うように、かごめは小さく笑った。 その余裕の態度がどうにも気に食わない。 犬夜叉が思い切り睨みつけたところで、楽しげな表情が崩れることもない。 悔しさに犬夜叉は細い手首を掴んで、指先に軽く歯を立てた。 「ふふふ、なぁに?」 もう知らぬ存ぜぬは通じない。先に仕掛けてきたのはかごめだった。 犬夜叉はそのまま手を引いて、細い身体を受け止めた。 2019/07/01 21:17 ◇ non title ぽたりと垂れた雫が頬を濡らした。 深い深い井戸の底。見上げた夜空は恨めしいほどにきらめく。 顎先へと伝う雫は、ほのかに温かい。まるで拭えないでいる彼女の涙のようだ。陽だまりのような温かさを思い出して、ふと頬を緩め、目蓋を閉じた。 今、あの名前を口にしてはいけない。唇を動かし、声に乗せ、耳に触れたら、きっとこの想いはとめどなく、どこまでも流れていってしまう。 それでも噛み締めた唇が喉を震わせ、喘ぐように彼女の音を形作った。 「…………か、ごめ……」 久しぶりに紡いだ名前はあまりにも苦しい。途端に溢れた想いは自分自身を押し潰す。 苦しさに震えるとふと吹いた風が、この身を優しく撫でて、包んでいった。甘くて苦い、春の匂い。かごめを連れてきて、連れ去っていった匂い。 「かごめ……っ、」 泣けもしない瞳の奥で、いつか忘れてしまいそうな、愛しい笑顔を見た。 2019/07/01 21:12 ◇ non title ふたり分の吐息が荒く空気を揺らす。あつい肌に触れる、夜のつめたさが気持ちいい。 「かごめ……」 ぎゅうと抱きしめられた腕の力がほんの少しだけ和らいで、犬夜叉の重みのすべてを感じた。 「重たいか?」 「ううん」 この重みを心地いいと思ったのは、いつだっただろう。汗も肌も、心臓の音も全部、全部。混ざりあっていく気がして―― 「なんか、落ち着く」 首筋でほぅ、と息を吐きながら呟くと、くすぐったそうに笑う声が聞こえた。 この腕も彼の重みも、呼ばれる名前も笑う声も。いとしい≠ニ言われているみたい。 それがなんだかこそばゆくて背中の爪あとを撫でながられ、負けるもんかと抱きしめた。 2019/07/01 21:05 ◇ non title おれの二歩先を歩く後ろ姿。癖のある柔らかそうな黒髪。ひらひらと揺れる苔色の腰巻。剥き出しの白い脚と、鉄の車をおす小さな手。それと、その他諸々。 出逢ったときと変わらない、数々の彼女のものたちにおれは首を傾げた。 先ほど見たのは気のせいだったのか。ふと見たかごめの横顔が、急にきれいになっていた、なんて。 覚えたての胸の疼きに手をあてる。 なんだってかごめなんかに。なんだってあんなに。 かごめを変えたものは一体なんなのだろう。 過ぎった考えに胸がもやつき、思わず舌打ちする。 そして深く深く、心の臓まで刺さるような視線を背中に送った。 そんな姿、ほかの誰かに見せてくれるなよ。 ほかの誰かで変わるなよ。 なぁ。 こっち向け、かごめ。 2019/07/01 20:58 ◇ non title 「でね、犬夜叉ったらね」 かごめが珊瑚の家を訪ねてから早一刻と半分。東寄りにあった太陽は、真ん中を過ぎて今は西へと傾く。この間に彼女の口から何度、犬夜叉の名を聞いただろう。珊瑚にしてみれば、かごめ不在の三年分――は言いすぎだろうが、それくらいに彼の名を聞いた気がしていた。 もういつ冷めたかも分からない茶を啜り、珊瑚は心の中でため息する。 全身砂糖まみれになりそうなほどに聞かされた惚気の数々。きっと彼女は今、あの頃以上に恋をしている。 「かごめちゃんはさ、犬夜叉のどこが好きなんだい?」 甘い話のお返しに少しだけ意地悪く聞いてみる。するとかごめはきょとんと丸くした目で二、三度瞬きした後に、恥ずかしげに俯いた。 「……ないしょ」 零れ落ちる黒髪が幸せ色に染まった頬を隠した。 「……ごちそうさま」 あぁ、見事にあてられてしまった。伝染った熱まで甘いとは、なんて厄介。 2019/07/01 20:52 ◇ non title うっそりと深まる金の瞳と熱っぽく呼ばれた名前。それと薄皮をなぞるようにして首筋に触れた指の感触。「犬夜叉……?」「っ、……わりぃ」いつもと違う彼に首を傾げると、弾かれたように背を向けて、暗い森の中へ消えていった。犬夜叉が男を滲ませ始めてしばらく。燻り続ける熱も、その消し方も知っている。でも、まだ。まだ、だめ。ごめんね。許してね。無垢なふりしたズルい女を。 2019/07/01 20:42 |