ひそか | ナノ




連絡を受けるまでの時間がひどく落ち着かない。時間ばかりを気にしていることや、無意識に電話は鳴っていないかと耳を澄ませていることも幾度かあった。原稿を広げて机に向かっても思考がついていかず上滑りばかりしていく。ため息も何度吐いたか知れない。


「せいしんさーん」


だから連絡を受け、迎えに向かったバス停になまえの姿を見つけるとひとしきり安心と愛しさで満たされてしまったのは仕方のないことだった。
ただいま!とおぼつかない足取りで上機嫌に飛び込んでくるなまえを抱きとめてようやくあの気がかりでどうしようもないため息も安堵のものへと変わることができる。


「おかえり」


ふふと耳元で彼女の笑い声がする。


「静信さんの匂いがします」
「なまえは……お酒の匂いがするよ」
「うーん…そっかぁ。ふふ、ごめんなさい〜。不快ですか?」
「いや、僕は構わないんだけど……明日のことも考えないと辛くなるよ」


二日酔いに苦しむ姿が見えるようで明日の彼女の身を案じずにはいられなかった。
明日は明日のわたしががんばります〜とやや強くしがみつくように抱きつくなまえを包むのはアルコールのにおいで思わず苦笑をする。
まだ二日酔いという苦しみが自分の未来に降りかかるとは想像だにしていないだろうなまえの声は歌うようにのびやかだ。 
もう体の中に入ってしまったものは仕方ないのかもしれないが、せめて水を飲ませた方がいいのかもしれない。

ともあれ、今日も何事もなく帰ってきてくれたことに改めて胸を撫で下ろす。
なまえのことだ、なにも心配はいらない。今までがそうであったように自分の心配など杞憂に終わる、そう思いつつやはり気がかりでならないのはどうしようもないことのように思える。
なまえはアルコール類に対して弱くもないが、飲んで全くの平常心を保っていられるほど強くもなかった。真夜中とはいえ日頃なら誰かの目につくかもしれない場所でなまえが積極的に触れてくることはなかった。そんな彼女が今は自分の腕の中に自ら飛び込んできてふにゃふにゃと笑っているのだ。恐らく自制心の錠前の鍵が一つか二つは外されている。よく一人でここまで帰って来られたものだとひとり危うさを覚えひやりとする。

いっそ、きみに全て話してしまえたなら良かったんだろか。
きみを信じているからという頼りない理由だけを握りしめ笑って迎えに出向き、小言もろくに溢さない僕にも、きみを案じるばかりで無為に時を過ごしてしまうことだってあるのだと。こうして腕の中に戻ってくる瞬間までいてもたってもいられないでいるのが現実の僕だと知ったなら、きみは失望してしまわないだろうか。


「せいしんさん」
「うん?」
「静信さん」


考えて、言えるはずがないと、繰り返し僕の名を確かめるようにゆっくりと嬉しげに呼ぶなまえを見て思い直す。
知れば彼女は自分の行動を省みるかもしれないが、縛り付ける言葉を吐きたいわけではなかった。
付き合いのひとつでもある席に顔をだしてはいけないとは言いたくない。
何事もなくなまえが帰って来られるならそれでいいのだ。
だからきっとこれからも僕は自分の思いの丈を後ろへ隠したまま彼女の帰りをこうして焦れたような思いで待つのだろう。


「お酒くさくて、ごめんね」


酔いでふやけて溶けてしまいそうな声に少し笑って答える。


「気にしないよ」
「もう夜中なのに、ごめんね」
「いいんだよ。一人は危ないからね」
「静信さん」
「うん」
「疲れたなぁ」
「そうだね、お疲れ様」
「わたし……わたしね」
「うん」
「すごくすごく会いたくて、一生懸命、帰ってきたんです……会えてよかったなぁなんて、ふふ、酔っ払いみたいだなぁわたしは」


甘えるように頬を寄せてそんな言葉をぽつりぽつりと不安を抱く胸の内に落としていく。
じわりと胸のあたりを焦がしてあたたかな感情を抱かせるのはいつだってきみだった。
会いたかったのは自分だって同じだった。
その言葉ごとなまえを応えるように抱きしめ返す。
バスに乗車していたおかげなのか、コートの表面に冷たさは感じられない。何にせよ、寒い思いをしていないことに安心する。


「帰ろう。冷えるといけないから」


ずっとこうしていたい気持ちはあるけれど。いつまでも離れることを惜しんでいてはせっかくぬくめられた体が冷えるだけでなく、風邪まで引いてしまいそうだ。
手に持ったまま首に巻かれていないなまえのマフラーを彼女の代わりに巻き直す。黙ってされるがままになっているなまえ。ふと、この過保護めいた行為も他の誰かが彼女に行ってきたことなんだろうかと考えれば簡単に胸がざわついてしまい、内心苦笑する。
苦いものをひそかに飲み込んで考えるのはもうよそうとなまえの手を引いた。


「うーん、いやです」
「なまえ?」
「おんぶがいいです。今日はおんぶしてください」


とろんとした眠たげな目がこちらを見つめてくる。街灯の光がなまえの黒い目に光を灯して潤んでいるように見える。
小さな不安がまた頭をもたげる。
やっぱりあまり行かせたくはない、そんなできることなら知られたくはない心情をなまえは知らずに暴こうとしてくる。


「やっぱり少し、酔っているみたいだね……いつになく」
「酔ってはいませんよ」
「なまえそれは……」


それは酔っている者が決まって口にすることだと言いかければ袖の端を引かれ、だめですかと問われる。
視線を合わせて互いに見つめ合う。気付いた彼女がにこりと疑うことを知らないような楽しげな雰囲気を纏って笑う。それだけで自分には拒否する選択肢などないと思い知らされる。
敵わないのだ、どうあっても。
その笑みが陰ることの方がきっと自分にはずっと恐ろしいことのように思える。
だめではないよ、と眉を下げて笑みを浮かべて受け入れることにした自分自身に本当に甘いと多少呆れながらも、こうしてただ一人を甘やかす日々を許されるのなら愛しんでいたいと思った。



「静信さんは、やさしいんですね」


穏やかで嬉しげな声だった。
なまえを背負いながら、今確かにそう感じてくれているだろう彼女の優しい言葉を否定も肯定もしない。それがなまえが抱く気持ちなのなら今だけはそれを受け止めていたかった。


「わたし、静信さんが…すきだなぁ……」


惜しげもなく与えられるくすぐったくなるほどの素直な言葉。ほのかにあたたかな背。その気持ちに、ぬくもりに満たされていく。それは疑いようもなく、自分自身だけの幸福だった。

ゆっくりと一歩ずつ踏みしめながら、寝静まった夜の村でその重みの心地よさというものを知っていく。ただそれだけのことに気づいただけだというのに、何度も繰り返された夜が初めての訪いのような顔をしており、彼女への気持ちをまた自覚してしまう。
ふふ、とまたなまえの吐息のような笑い声を耳元で聞く。


「しあわせ……しあわせ……」


ほとんど寝言のように呟かれる。アルコールによる浮遊感がなまえにそう思わせたのだろうけど、うん、そうだね、と彼女と同じことを僕も思った。


「寝ていてもいいよ。家に着いたら起こすから」
「いやです……寝ません」


そんなことを言っていてもきっと眠ってしまうのだろう。後ろを見なくてもなまえの瞼は落ちてしまっているのがわかってしまった。何も話さず帰路につくことが少しもったいないと思わなくはないけれど、今日は彼女の重みがその思いを打ち消してしまうような気さえした。


「あったかくて……ふわふわしてて……静信さんがいてしあわせです」


だから眠りたくないの。
耳元で、それこそふわふわと夢心地の声で囁いて首に回された腕が離れまいとより絡みついた。

国道を走る車の音も、村人のささめく声も、鳥や虫の声さえ聞こえない。月だけが見える水底のような場所で、何もかもから取り残されて二人きりになったような気になるのはきみとだからなのかもしれない。

これを幸せと呼んでくれるのなら、なまえ、きみは今どんな顔をしてそれを感じているのだろう。それを知らないでいる間になまえが僕の内側にまた幸いと呼ぶべきものを降らせていく。


「遠回りしてください。わたし、すごくしあわせ……」


そう、僕も同じなのだと思う。
きみの言葉ひとつで幸福というものになれるのだから。







20110116
それはきみの言葉ひとつで
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