(社会人設定) 好きでいてくれさえすれば、何も不満に思うことなんてないと思ってた。ただ結城くんがわたしを好きでいてくれる。それだけで不満も不安も吹き飛んでわたしの眼前に広がる世界は明るい色をしていられる、そう思ってた。 「わたしには、なにもない」 けれどもどうしてわたしは今こんなにも自分を思い責めてしまっているんだろう。 真剣な眼差しで見つめられ、いつかいつかと幼い頃から夢見ていた言葉を与えてくれた途端、崩れ落ちそうになるほどの不安と悲しみが込み上げた。 その言葉だけで幸せに染まれるはずだった。なのにわたしが純白に彩られた自分の姿を思い描けたのはほんの一瞬のことだった。 怖かった。 わたしに一体何ができるっていうんだろう。 何の才能にも恵まれず生きてきたわたしに一体何が。 自分がどんな人間なのかなんてとっくの昔に理解していたつもりだった。わたしはわたしだから、そうやって割り切ることだってできていたはずなのに。それなのにそれまでの自分を否定する気持ちが渦を巻きだし、こんなにも簡単に呑まれていこうとする。 いつかこの日の記憶すら人生の汚点にして悔いるかもしれない結城くんを思えば胸が苦しくて悲しくて首を締めたように息ができなくなっていく。 震える指先を少しでも抑えたくて胸の前で両の手をぎゅっと握ってみる。それでも負の感情はまるでとどまることを知らず溢れだした。 「わたし、お裁縫…苦手だし、音痴だし。料理も仕事も…要領だって悪くて……わたし何もない、きっと何もしてあげられない」 何もできないし何もしてあげられない。結城くんが満足してくれるようなことをわたしは今まで何かひとつでもやってこられたかな。きっと何もしてこれなかった。結城くんに頼って助けてもらってばかり。役に立てたことなんてきっと一度だってなかった。これからだってきっとそう。 これまでのことを思い返すほど自分の不甲斐なさと申し訳なさが募って、どうしようもなくなって視界が歪んでしまう。 「何もできないよ、ゆうき、くん……」 まともに顔も見られず俯くとますます涙が滲んだ。 幸せに、なってほしかった。 女の子みたいだって誰にも呼ばせようとしなかった名前のこと、家の在り方、親の都合だけで来たくもない田舎に連れてこられて住むことを強いられたこと。高校生活のほとんどを勉強に費やしてまであの村から出ることを願った結城くんはきっと幸せでなければいけない。 報われてほしかった、これから先の全てに。 だからわたしでいいはずなんてない。 わたしは何もかも中途半端な人間で秀でたところなんてひとつもないそんな人間なんだ。 なのに。 それなのに、どうしてだったのかな。 何故今まであなたの傍にいることが許されてきたんだろう。どうして今日まで結城くんはわたしを見放さなかったんだろう。わたしの何がよかったの結城くん。あの村を出ると決めた時、どうして手を差し伸べてくれたの。 それがわたしにはわからないんだよ。 「それ、いつまで続けるつもりだ」 「だって、わたしは」 何もできないと小さくなれば、関係ない、とわたしの固く握り込んだ手に結城くんの手がかかる。頑なに拒むように力を込めていたのに、結城くんに触れられただけでそれは簡単にほどけた。臆病なくせに現金なその手はきっとわたしそのものだ。 左手だけを結城くんの方へ引き寄せていかれながらゆうきくんと彼の名前を口にする。それだけで蓄積されてきた結城くんへの想いが押し寄せ溢れだしてしまいそうだった。引っ込めなきゃ、そう思うのにわたしの手はそちらへ行きたいとでもいうように戻ってこない。 「本当にわたし、なにも…できないんだよ」 「何ができてできないかなんて関係ない。今さらだ、そんなの」 「で、も」 「もう全部知ってる。あの村にいた時から」 小さな銀色の輪が薬指をくぐっていく。取り柄のないごくありふれたわたしの指を。 それはまるで、御伽噺や素敵な恋のお話の中の出来事のようで、 「一緒にいればいいんだ」 眩い夢を見ているようだった。 「何かしようなんて思わなくていい。何もできないとかそんな理由のために離れていこうとしてるんなら……離してやるつもり、ないから」 そう言って一片の迷いもなくはめられたブリリアントカットのダイヤの指輪が夜の星みたいに瞬く。 顔を上げて見つけたのは、何もかも決めてしまった時の結城くんの眼差しで、まるで大切なものを離さないでいるかのようにわたしの手を握る。 「……一緒にいるなら、あんたなんだけど」 ぽろ、と涙が溢れて落ちた。 ねえ結城くん、わかってるの? 朝一番に結城くんの顔を見るのはわたしなんだよ。おはようもおやすみも、いってらっしゃいとおかえりも、声をかけるのは全部わたしなんだよ。 下手だけど料理をして、誕生日には必ず好きなものを作ってあげたりなんかして、ケーキも用意して、天気のいい日にはお布団を干すの。ちっぽけなことばかりだけど、でもどれもきっとうまくいかない。時々焦がしたり雨で台無しにしちゃったりすると思うんだ。それでもいいの結城くん。この先も傍にいることを許されたのがわたしただひとりだなんてそんなこと、あってもいいのかな。 もう目の前にあるかもしれない夢みたいな風景を思うだけでぽろぽろ涙が落ちてくる。 「顔、ひどいな」 「結城くん、ひどいよ……」 だって、わたし知らなかったんだよ。わたしが結城くんの言葉で世界一幸せになれるように、もしかしたら結城くんもそうなってくれるのかもしれないなんて。 「なまえ」 ひとしきり泣けば、いつからか呼んでくれるようになったその呼び名が耳を撫でる。ぐずぐずの顔を上げると、返事、と言って結城くんの指先に涙をすくいとられてひどいと言われたばかりのぐちゃぐちゃの顔のまま瞬く。 「返事、待ってるんだけど」 優しく、微かに甘い。わたしの好きな人の声。 微笑んで返事を求めてくれる結城くんをみとめて飽きもせずまた顔を歪めながら涙を滲ませてゆうきくん、ゆうきくんって何度も名前を呼んだ。 待ちわびるような、だけど見守るような眼差しだけがそこにある。 この手を握り返してもいい、離さなくていいのだと知らしめられるほどに不明瞭になる視界。 うれしかったことも自分が情けなくて悲しかったこともたくさん思い出しながら、相変わらずぽろぽろ涙をこぼして夢や幻でないことを祈り、手を握り返して確かめた。染み込むように馴染んだ感触、たくさん繋いできた手。ああ結城くんだ、なんて当たり前のことを思いながらひどい泣きっ面のまま子供みたいにあのねってしゃくりあげると、また結城くんが目尻にたまった涙を拭いとってくれる。 この瞬間が結城くんにとっても幸福なものであるように願いながら、わたしはもう一度あのね、って笑ってはにかむ。 「あのね、結城くん」 なんにもないけどあいしてる 「マリッジブルーには早いんじゃない」 そう言って抱き締めるその人の幸福に満ちた声に、わたしはまた泣きたくなった。 (キンモクセイが泣いた夜) 20220630 ← |