俺は今非常に焦っていた。今まで生きてきた中でここまで焦ったことはないと思う。
自分と同種だと気になっていた存在ではあったが、一緒に住んでいるうちにかなり気に入っていたらしい。
外の景色を背に、名前さんがうちのベランダの手すりに座っている。うちは8階だ。落ちたら絶対死ぬ。
こうなる前に、ありえない量の酒を煽る名前さんを止めておけばよかった。
うちに泊まっている理由も、酔っ払ってビルの二階からダイブしたのがきっかけなんだし少し考えれば気付けたのに。

「名前さん危ないッスよ!こっちきて!」

「大丈夫だよ〜私飛べるから!アイキャンフラーイ」

満面の笑みで楽しそうにしている。焦っている俺が馬鹿みたいだ。でもマジで落ちたら洒落にならない。
俺は少しずつ少しずつ近づいていく。酔っ払っているからか名前さんは気付いていない。
目の前にたどり着いても名前さんは気にせず笑っていた。

「ねえ、私がもし死んだら世界は崩壊するんだよ。時間が止まるの」

私は死なないけどね。そう笑い手すりから手を離した。グラグラと名前さんの体が揺れる。
焦って手を伸ばし、抱きかかえて内側へと引き込む。痛い、尻もちついた。
名前さんは腕の中にいてほっとした。洒落にならない。

「何してんだよ!」

思わず声を荒げると、腕の中の名前さんが無表情で見上げてきた。
下手したら死んでいた。俺が手を伸ばさなかったらバランスを崩して落ちていた。
この人いつも楽しそうにしてるかぐーたらしてるかだけど、実は自殺願望でもあるんじゃないのかと疑わずにはいられない。

「なんで怒るの」

その呟きは涙声で、ぽろぽろと涙を零し始めた。


「名前さん、とりあえず家ん中入ろ?風邪引いちゃうッスよ」

俺と比べるとかなり小さい名前さんを抱き上げ、部屋の中に入りソファーに座らせた。
あー、どうしよ。女の子が泣いてるときってどうすればいいんだっけ。未だに焦りが拭いきれていないのか、どうすればいいのかわからなくなってしまう。

「いきなり怒鳴ってスイマセン。でも、名前さん怪我したらって焦ってたんスよ」

ここで「落ちて死んでたら」と言ったらまた「死なないって言ってるじゃん」だとか「飛べるって言ってるじゃん」って返ってくるのは分かっていた。本当は怪我じゃ済まないんだけど。

「テツにゃんのとこまで飛んでいこうと思ってたのに」

無表情で放った名前さんの言葉に、虚無感のようなものが襲った。
ここ3週間一緒に生活していてこの人は俺がついていてあげないと生きていけないんじゃないかという、変な幻想を抱いていたことに気付く。
多分この感情は恋とか愛とかではないんだろう。独占欲と庇護欲が沸いてしまっただけ。名前さんを見て愛おしいとは感じたことがなかった。まるで手のかかる子供のような、そんな感じだ。
それでもさっきの一言は俺を傷つけるのに充分すぎた。
俺の見た目とかモデルという肩書きとか、そういうのに囚われずに俺に接してくれていた名前さんは、そもそも俺のことなんて見ていなかった。
名前さんの心の中にいるのは、いつも黒子っちだ。
俺は名前さんを何とか寝かしつけ、嘲笑いながらケータイを手にしアドレス帳から目的の人物を探した。





インターホンの音で目が覚めると腕の中には熟睡している名前さんがいた。
薄く開いた唇に軽く口付けを落とし、名前さんが起きないよう立ち上がる。
学校も部活も仕事もない日でよかった。
玄関のドアを開けると、そこにはやっぱり影の薄い私服姿の黒子っちが立っていた。

「いらっしゃい。今日は部活ないんスか?」

「はい、ちょうど休みで良かったです。それで名前さんは?」

「それがまだ寝てるんスよー」

来てそうそう名前さんか。軽く笑いながら招き入れると、寝室に着く前に呼びとめられた。

「黄瀬君」

「どうしたんスか?」

「名前さんに手は出しましたか」

「彼氏でもない黒子っちに答える義理はないよ」

ちょっと意地悪したくなっちゃっただけなんス。内心そう言い訳しながらもそんなのは建前だった。
名前さんの一番である黒子っちに少し嫉妬しただけ。
俺の言葉を聞いて、黒子っちは酷く傷付いた表情を浮かべた。
あー、俺なにしてんだろ。昨日自分が感じたような感情を黒子っちに感じさせるなんてなにしてんだろ。すぐに後悔が襲った。

「あー、今のは冗談ッスよ。黒子っちごめん」

「口調変わってましたけど」

少し困ったような表情で薄く笑った黒子っちは「ここですか?」と寝室のドアを開けた。
あー絶対俺が名前さんを好きだって勘違いしたよな黒子っち。そうじゃないんだけど。親みたいな感情なんだけど。そう思っても何故か口には出せなかった。

「……爆睡ですね。これは起こしても起きないパターンです」


「起こすのも可哀想だし、起きるまで久々にゲームでもしないッスか?」

黒子っちは何回か試したことがあるのだろう。なんか俺のセリフが酷く滑稽だ。優しい男止まりなヤツが放ちそうな言葉に嘲笑する。
寝室のドアを開けたまま、リビングでテレビゲームをやる。
あと何時間で起きるんスかねー。この空気で黒子っちと二人ってかなり気まずい。そんな空気作ったの俺だけど。




黒子っちが来たのが午前10時くらい。現在午後2時だ。

「涼ちゃーん、お水ちょーだーい。あれ?今日部活なの?」

やっと起きたのか俺を呼ぶ声が聞こえた。水を用意してさて持って行こうとすると、黒子っちに「僕が持っていきます」とグラスを横取りされてしまった。
あー、そうッスよね。リビングのソファーに腰掛けると、名前さんの大きな声が聞こえてきた。

「っなんで、テツにゃんがいるの」

「黄瀬君から連絡もらったんです」

これは俺も行ったほうがいいのかな。喜ぶと思っていた名前さんは動揺しているようだった。
寝室に行くと、名前さんに睨まれた。結構怖いッス。近づこうとすると名前さんは枕を投げてきて……俺の顔面にヒットした。

「ここの場所教えないでって言ったじゃん」

「名前さん、そんなに僕に会いたくなかったんですか?」

黒子っちは酷く落胆しているように見える。
これはまずいとすぐに口を開く。

「名前さんが昨日酔っ払ってテツにゃんに会いたいー!って言ったんじゃないッスか」

言い回しは違かったけど、そういうことだろう。本当は会いたかったはずなのに、何故嫌がるのか。
噛み痕だってもうほとんど消えていて黄色い打撲傷くらいにしか見えないのに。

「あー、会いたくなかったわけじゃないよ。ごめん、気にしないで」

黒子っちから名前さんに視線を移すと、もう動揺した様子はなくいつも通りの笑顔だった。
それから俺は黒子っちと名前さんを交互に見やる。

「家に帰りましょう?黄瀬君にもそろそろ迷惑ですし」

「あー、俺は迷惑じゃないんでいてもいいんスけど、そろそろ冷蔵庫の中とかヤバくないッスか?」

黒子っちはどうしても東京に連れて帰りたいんだろう。そんなに離れていない距離とはいえ名前さんが神奈川にいたままだと部活で忙しい黒子っちは滅多に会えない。
俺も帰って欲しくない気持ちはある。だけど、短期間とはいえきっと一緒に住んでいたからこんなに情が移ってしまったんだ。
離れればこんな面倒な情は消えてくれると思って黒子っちに助け舟を出した。

「うーん、そーだねー。じゃあ帰ろうかな」

「……じゃあ俺が荷物まとめてくるッスよ」

帰らないと言ってくれるのを期待していたんだろうか。ちゃんと作れているかわからない笑顔で部屋を出ようとすると、呼び止められる。

「まとめなくていいよ。荷物置いてく〜」

また来るかもしれないし。そう笑いながら名前さんは立ち上がった。

「あ、邪魔だったら捨ててもいいよ」

「捨てないッスよ。名前さんが来たとき用に置いとくんで」

「来ることなんてもうないんじゃないですか?」

会話に割って入ってきた黒子っちはかなりの不機嫌オーラを纏っている。
それもそうだろう。好きな人(だと思う)が他の男の家にまた泊まる可能性があるのだ。
名前さんは気にせずに俺に抱きついてきた。いや、まじで俺黒子っちに嫌われるんでやめてください。

「涼ちゃん今までありがとねー!また来るから」

「もうビルから飛び降りたりしちゃ駄目ッスよー」

「なんでテツにゃんいるのにバラすかなこの子は」

バレたくなかったのか腕を伸ばし俺の両頬を引っ張りしかめっ面をした名前さんは、支度しなきゃーとダルそうに洗面所に向かった。
黒子っちは「飛び降りたってなんですか?」と今までみたこともない表情で問いただしてきたがなんとかかわした。
あーこれからまた一人暮らしか。寂しくなるなー。俺が神奈川で一人暮らしするのを渋った親の気持ちがちょっと分かった気がした。
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