走れ。足が千切れても逃げろ、肺が潰れても止まるな。俺はライオンに追われる草食動物みたいに人気の無い閑散とした通りを駆け抜けていた。俺の胸ポケットに入ってるスマホは情報そのもので、それは時に、俺一人の命よりも重い。その重圧に歯噛みして、けれど投げ出すことは許されないんだと首を振って自分を叱咤した。
どこからか、スコッチが潜入捜査官であるという情報が漏れたようだった。突然組織から追われる身になってしまった俺は当然の如く逃げ惑うしかなくて、簡単に、本当にとても簡単に言うと、死に場所を探している。
零、ゼロには一度だけ連絡をした。もう潜入捜査を続ける事は出来ないということ、そして恐らく俺に逃げ場はないということ。生憎拳銃も持っていないし、逃走用の足もない。どこから情報が漏れたか分からないので誰を頼れば良いかも分からない。信頼できる相手はいるものの、俺が接触することでその相手を危険に晒してしまう可能性だってあるのだ。
ゼロなら絶対に信頼できる。あいつなら何とかして俺を匿って、公安の仲間に連絡して俺を安全な場所に匿ってくれるだろう。けれど、その後は?万が一組織に勘付かれてゼロにまで疑いが向いたら?直属の上司、風見さんに頼ることも出来ない。もし警視庁に駆け込んで、そこに内通者がいたら?なぜ俺の正体が知られてしまったのか、理由がはっきりしない今、身を寄せる場所を選ぶことも出来ない。ただただ、万事休すだった。
この携帯を処分して、俺自身も何の痕跡も残さずに雲隠れする。ろくに準備もしていないのにそんな芸当ができるはずも無い。だったら、もういっそ、このまま一生口を噤んでしまえる方法を取るしか。ぐっと唇を引き結んで首を横に振った。余計なことを考えるな。今はもっと大切な事があるだろう。俺の命よりもっと、大切なことが。
「!、すみませ…っ!」
どん、と何かにぶつかって思考が途切れる。立ち止まっている人に気付かず走ったままの勢いで突っ込んでしまったようだった。相手は俺と同じくらいの体格で、お互いに結構な衝撃だったろうにあまりダメージは無いようだった。だから、そのまま通り過ぎれば良かったんだ。俺は立ち止まってしまった。見覚えのある顔だったからだ。こちらを振り向いた男は、少し驚いた風な顔を、更に深い驚愕に染めた。
「あぁ、俺こそ…も、ろふし…?」
「っ!坂下…!」
坂下勇太。俺とゼロと共に大学、そして警察学校と共に勉学に励んだ仲間だった。警察犬であるシェパードを思わせるような凛とした顔立ちをした男の中身が、それでいて子供のように無邪気なことを知っている。世話好きで、取っ付きやすくて、同い年なのにきっと俺のことを弟のように思っていただろう、大切な友人。俺は相手の頭の中に起こっているだろう言葉の奔流の一つ一つを予想して、それらに何一つ返せるものはないと確信した。早く、ここを去らなくては。
「あっ、えっと…ひ、ひさしぶり!それじゃあな!」
へらっと笑って煙に巻いて、その場を立ち去ろうとする。けれど坂下がそんな事で誤魔化されてくれる訳もなく、当然腕を掴まれて引き留められた。
「待てよ!お前今まで何…警察辞めたのか!?」
分かっている、これ以上ここに留まるのは良くない。早くここを離れなければ組織の追手が来てしまう。そうしたら、俺と一緒にいる坂下にまで危害が加わる可能性がある。巻き込む訳にはいかない。坂下が俺の協力者だと思われたら、今ここで彼を道連れにしてしまう可能性だってあるのだ。
「悪い、俺本当に急いでるから…!」
そう断った俺の腕を掴む指先に、更に力が篭もる。このままペンチのように腕を半ばから引き千切られる映像が一瞬頭を過ぎるが、ぶん、と頭を一度振って振り払う。そんな俺を不審に思ったらしく、坂下が片眉を釣り上げた。
「…お前、追われてる?」
「…なんで」
俺の返答に確信を得たらしい坂下は、俺の頭にフードを被せながら声を潜める。その目は油断なく周りの様子を探っていて、俺は言葉を失った。警察を辞めているかも知れない人間を、事情も分からないまま庇い立てようとしているのだ、この男は。どうしよう、俯いて、何とか濁して迅速にここを去る方法を考えた。不意を突けばこいつを昏倒させられるか?楽観的に見積って五分五分だが、こっちも無傷じゃ済まないだろう。というかもし出来たとしてこの危険な場所に坂下を置き去りにする事はできない。どうする、どうしたら。
「周り気にし過ぎ、追ってるのか追われてるのかだけ言え」
くしゃ、とフードの上から髪を掻き乱されて、息が詰まる。こんな状況で、安心させるようなことをしないでほしい。助けを求めたくなってしまう。
「…で、も」
口篭る俺を促すように、坂下が顔を覗き込んでくる。真っ直ぐな目が鋭く、それでも気遣うような雰囲気を纏っていた。坂下が口を開いた、瞬間に一つ、遠くにアスファルトを蹴り付ける足音が反響する。あ、だめだ、これは。一瞬で我にかえって、俺の腕を掴む坂下の手を振り払おうとするが全く開放してくれる様子はない。歯噛みして、自棄になって声を荒らげる。
「っ、追われてる!だから早く放してくれ!」
足音がひとつ、聞こえる。きっと、俺を追いかけてきた組織の誰かの。それが死神の足音に聞こえる。怖い、死ぬのは怖い、嫌だ、俺は、まだ死にたくない。死にたくないし、目の前のこの友人を巻き込んでしまうのも、絶対に嫌だ。坂下の視線が足音の方を向く。なぁ、そっちには誰が居るんだ、怖くて振り返れない。坂下の顔から目が反らせない。じわりと坂下の瞳孔が縮まったような気がして、それから俺の腕を掴む指先に更に力が篭った。
「…諸伏、さっき俺にぶつかったよな」
「っ、謝っただろ!くそ…放せよ!お前を巻き込みたくないんだ!」
そう怒鳴りつけて坂下の手を振り払おうと力を込める。くそ、力が強い。歯噛みしながらこの男の警察学校時代の成績を思い返してみて納得した。得意科目は逮捕術と射撃で趣味は筋トレ。だったらこのゴリラみたいな握力も納得だよゼロといい伊達といいどいつもこいつも。抵抗しながら、どうして分かってくれない、なんて一つも事情を説明していないのに、出来もしないのに勝手なことを考えた、その瞬間。俺は、気付いたら空を見ていた。
「え」
視界の端で、坂下のジャケットが踊るように翻る。ふ、と息を吐いて乱れた髪を掻き上げた、その男が、浅く息を吸った。ぎらりと鋭く俺を睨みつける瞳が、殺気すら含んで俺を射竦めた。
「…暴れるんじゃねぇ!!十五時四十一分!!公務執行妨害で逮捕じゃゴルァア!!」
「な、に…?」
なに?これなに?何があった?
理解が及ばないまま尻餅をついた俺が呆然としている間に、俺を背負投げしたらしい坂下が後ろ手に俺を取り押さえる。え、なんて情けない声を洩らしているうちに、背中側からがちゃん、と金属音。手首に鉄の重み。手錠だ。
「神妙にお縄に着け!ほらさっさと乗んな兄ちゃん!」
「えっ、えっなに」
ぐっと手錠を引っぱり上げられたのに従って立ち上がる。それから勢いで吹っ飛んだフードを被せられて、おさえるように後頭部を掴まれた。少しだけ身を寄せる姿勢になって、坂下の身体に緊張が走っているのが分かる。ふ、と浅く息を吐いた坂下は、間近で立ち止まった足音に声を掛けた。
「…何だ?この兄ちゃんのお友達か?」
今にも唸って威嚇しそうな声。坂下がここまで敵意を顕にしているところなんて、見たことが無かった。俺の知らないところで、同期達もまた警察官として修羅場を奔走しているのだと、場にそぐわない感慨深さを抱く。
「…いいや、生憎犯罪者の友人はいない、通りすがりだよ」
返ってきたのはライの声だ。ごくり、と反射的に固唾を飲んで、息を潜める。嘘つけよどちらかと言うとお前がれっきとした犯罪者だろ。じゃなくて、手錠を掛けられているのが俺だと分かっているはずなのに、取り返そうとしないのは何故だ。日本の警察に見つかったとはいえ相手は坂下一人。否、俺もいるので二人…ではあるが、拘束されているため腕は使えない。
ライほどの男であれば、例の如く無傷とは行かないだろうが坂下を無力化して抵抗する俺を拉致することも出来ない訳ではないだろうに。もしかして、見逃してくれようとしている、のだろうか?ありえない考えがふと頭を過る。少しだけ顔をそちらに向けると、坂下がじ、とライを見据えて、それから色々なことを黙殺したらしく口の端を上げた。
「そうか、じゃあ真っ直ぐお家に帰るんだぞ、この辺、最近空き巣が出るらしくてな」
口調だけは戯けた様子で坂下が言う。その瞳は油断なく相手を見据えているし、身体も微かだがライの一挙一動にすぐ対応できるよう身構えている。自然な動きで俺を傍らの車の方に近付けて、自分は俺とライの間に立ち塞がった。一触即発。そんな空気を肌で感じつつ、俺もライの動向に意識を向けた。坂下に危害が及ぶような事があったら、顔向けできない相手が何人もいる。油断無く俺達の様子を探っていたライが、ふと肩の力を抜いた。
「あぁ…しっかりそいつを連行してくれ、おまわりさん」
「言われなくとも、お仕事なんでね」
ほら行った行った、と不良警官が犬でも追い払うように手を払った。ぐい、と肩を引っ張られて、坂下の車の助手席に押し込められる。確保した犯人を助手席に突っ込むなんて、と思うが、こいつは今一人らしいので仕方のないことだろう。俺が本当の凶悪犯でなくて良かった。
「はー…おい何だあれ絶対カタギじゃねぇだろ!諸伏お前何した!?マフィアのアジトに手榴弾でも投げ込んだのか!?職質待った無しだろ!」
ばん、と大きな音を立ててドアを閉めた坂下が、シートベルトもそこそこに車を急発進させる。振り返った男の顔は
半笑いで、けれどしっかり引きつっていた。確かにライは見た目からして只者ではない男だったが、一緒に任務に当たっていた頃は意外と気さくな奴だった。ゼロとは馬が合わなかったみたいだけど。敵に回したくない相手ではあったな、とその強面を思い出して、坂下のあんまりな言葉に苦笑する。俺そんなヤバい事するような奴だと思われてたの?
「坂下は俺の事なんだと思ってるの」
「度胸ある暴走列車」
「ああうん…なるほど、よーく分かったよ」
否定できないのが痛い。特に警察学校での自分の行動を振り返ればそう思われていても仕方がないだろう。それに今までも、俺だけではないにしろずっと音信不通だった訳だし。はは、と軽く笑えば、とりあえず車を走らせていたらしい坂下が俺の方をちらりと向いた。
「……それで?どこ行けばいい」
「…捕まえないのか?」
「バカだろお前、あんなんでしょっ引けるかよ」
もう一回学校通え、だなんて軽口を叩いたそいつは、真っ直ぐ進行方向を見た。もうそこに悪戯っぽい笑みはない。必死で脳味噌を回転させているらしい坂下が、うーんと唸って前髪を後ろに撫で付けた。
「事情は?つってもどうせ話さねぇよなぁ…信用できる相手は?隠れられる場所とか…なんなら俺んち来るか?てかお前犯罪者?なんで命狙われてんの?てか命狙われてんの?」
口が良く回る。俺に問うているのか頭の中を整理しているのか判断がつかないまま、とりあえず一つだけ言えることを彼に伝えた。
「悪い、話せない…とりあえず一旦勾留してくれないか?」
「あー待って待ってなんかちょっと面白いのやめて」
坂下が前を見ながら肩を震わせている。顔は至って真剣なのでそのギャップに俺まで笑いそうになってしまった。こっちは真剣なんだけど。
「お前ほんと…それからその、仲間に連絡してもいい?」
「仲間…仲間ね、なるほど…?」
強い瞳と、甘い態度に折れて坂下に頼ってしまう。何も考えていないように見えて勘が鋭いし、適当に見えて優しい奴だ。赤信号で車が止まる。繰り返して俺の言葉を噛み砕いた坂下が肘置きに体重を預けて、俺にぐっと身体を近付けた。一瞬伏目がちになった瞳が、下からじ、と睨みつけるように、俺の目の奥を見据える。
「そいつ、絶対諸伏のこと助けてくれんの?」
誤魔化すことを許さない真っ直ぐな目だ。心から心配している、俺ではなく、俺を脅かす相手に怒っているのだと赤裸々に伝えてくる視線は、だからお前も嘘をつくなと強いるように誠実だった。例えば取り調べでこんな風に見詰められたら、まともな人間なら虚偽の供述ではなくどちらかと言えば黙秘に走るだろうななんてぼんやりと考えて、俺もなんの含みもなくしっかりと頷いた。久し振りに、心の底から思った言葉を口にする事ができた。
「…うん、信頼できる」
「…そうかよ、使え」
肩を竦めた坂下が俺に携帯を投げ渡してくる。カバーに変なキーホルダーの付いたそれは、坂下の携帯だ。今まさに「俺の携帯は命より重い」みたいなことを考えていただけに、その行為に戸惑ってしまう。確かに俺の携帯は電源を落としてある。出来るだけ使いたくないのも事実だ。
「い、いのか?」
顔を上げて坂下を見ると、運転席にふんぞり返った坂下が笑っていた。個人情報の塊を簡単に渡した男は「いいよ」と笑いながら左手で俺に向かって手を伸ばしてきた。グラスを傾ける動作だ。
「せっかくだから久し振りに一杯やりたかったけど?」
「うん…今度会ったらな」
「だろ?」と笑った坂下に、俺も同じ動作を返す。グータッチをするように終わったその戯れに、坂下は喉の奥で笑った。
「さて!聞き込みブチッて帰っか…バレたら目暮さんブチギレ案件だなこりゃ」
それはそうだろう。強盗事件の聞き込みの最中だったらしい坂下は、一旦それを離脱して警視庁に向かってくれている。しかも俺の逮捕も形だけの公務執行妨害で本当に立件する気はないから、職務をほっぽり出したも同然。申し訳なさもあるが、久し振りに会った友人が前と同じように接してくれるのも、何も聞かずに味方になってくれるのも、嬉しかった。こんなことを考えている場合ではない事は勿論分かっているけれど、荒んだ生活を送ってきた俺にとって、何よりも。
「…俺のために始末書書いてくれるのか?」
「任しとけ、俺の文才舐めんなよ」
涙ぐみそうになって戯けた質問に、温かい答えが返ってくる。嘘つけよ、座学はそこそこだったくせに。坂下は始末書を書くより舌先三寸で上司を丸め込む方が得意そうだ。実際に課題の提出期間を伸ばしてもらっていた交渉術や、警察学校時代に鬼塚教官に悪事を見逃して貰っていた話術を思い出して、懐かしさが込み上げた。
「ありがとう、坂下」
涙を堪える俺をちらっと一瞥して、坂下が喉の奥で笑う。心なしか荒い運転に揺られて、俺の頬を一つだけ涙が伝った。
「さっさと連絡しな、検索履歴は見んなよ」
それきり前を向いたままの坂下が言う。気が緩んで情けない顔の男は見ないふりをしてくれるらしい。お言葉に甘えて、俺は携帯の画面に視線を落とした。
「…きょにゅうおんなきょうしのとくべつじゅ」
「窓から投げ捨てんぞテメェ」
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