脳内辞典



【指先】
22



ヤリチン、なんて不名誉な呼び名だよなぁ。なんて、爪を磨きながら考える。勿論濡れ衣である。俺は未だかつて片手で十分事足りるほどしか恋人なんていなかったし、ちゃんとお付き合いしている相手以外と寝たりしない。だというのにちょっと顔がいいだけで、ちょっと飲み会帰りに女性を送っただけで、ちょっと食事に行っただけで、ちょっと爪を短く揃えてるだけでそんなふうに言われるのだ。世知辛い世の中である。

まぁそんな風に言われるのは大抵どうにかして俺の粗探しをしたい奴か、そうでないと知っていることを前提にイジってくる友人か、モテない奴の僻みだから、気にするほどじゃない。一時期本当に病みかけて落ち込んだ俺に、従兄弟のルリナがそう言ってくれた。けどその後速攻でルリナと俺の噂も立てられたのでむしろもう「そういうもの」なんだと開き直るきっかけにもなった。どうしようもないことの一つや二つ人生にはあるもんだ。

そんな俺ももうそこそこ前に成人して、けれどヤリチンの噂は消えなくて、どころか、もはやキャラとして定着しているのだから仕様がない。皮肉なもので顔もそこそこ見れる造形に育ったので余計だ。従兄弟とはいえルリナと同じ血が確かに流れている、自分で言うのも何だがエキゾチックな顔立ち。親に感謝。で、なんで今そんなことを考えてるかと申しますと。

「ナマエのヤリチン野郎」

「全っ然違いますけど?」

俺の家のソファに寝転んで、散々そうやって言い掛かりをつけてくる男がいるからである。とんとん、ローテーブルに敷かれたティッシュに爪やすりについた粉を落とす俺の背中に、大きな足がげしっと襲い掛かってくる。ドラゴンストーム様は足癖が悪いことで。やめてと言いながら振り向けば、不機嫌そうな顔をしたキバナがこちらにじとっとした目を向けていた。

「じゃあなんで爪なんて磨いてんだよ」

「普通に割れたからだよ?」

超絶言い掛かりジムリーダー様にガンつけられつつ、俺も口をひん曲げて言い返す。ルリナ伝いに知り合ったこの男とは友人と言っても差し支えない関係だ。というかルリナと二人で飯を食おうと約束してたら何故か当日集合場所にキバナもいたというびっくり展開だった。

それから事あるごとに俺とルリナが遊ぶ約束をすると、何故かキバナもハッピーセットで付いてくる。多分こいつはルリナの事が好きで、顔の似ている俺にちょっかい掛けてるのか、もしくはヤリチンの俺とルリナが頻繁に二人で会うのをいただけないと思っているかのどちらかだろう。けど、こんな風に家にまで押しかけてくる理由はちょっと分からない。

しつこく付き纏われてるなら一度ガツンと言ってやろうか、とルリナにそれとなく尋ねた事がある。けれどルリナは俺を呆れたように見て「私は別に今の所困ってないけど、ナマエはキバナの事が嫌い?」と論点をずらしてくる。まぁ俺個人としては別にキバナのことは嫌いではないし、どちらかというと気が合う方だから特段追っ払う理由はない。そう伝えると「そう」とその話は終わりになってしまうので、ルリナとキバナの関係性は謎のままだ。

「どれどれ?おれさまにも見せて」

ずい、と後ろからキバナが身を乗り出してくる。俺の横の床に手をついて、上半身がほぼソファからはみ出た。こいつデケェなと思いつつ、洋服に引っ掛けて真横に向かって割れた爪を見せてやると、その指先に目もくれないキバナの片手が、俺の顔をホールドした。伏目がちの瞳が俺の唇を凝視しているのに目を丸くしてしまうと、ぐ、と恐ろしいほど整った顔が寄って来る。あぁ、キスがしたいのか。ぼんやりと察した俺は、爪やすりをティッシュの上にそっと置いて、両手でその顔を掴んで押し返した。

「おいこら」

「こっちがこらだよ」

キバナの赤ちゃん肌の頬がむにっと潰れている。どうやらなんの断りも無しに口付けされそうになった俺に怒る資格はないらしい。男二人の必死の攻防、先に折れたのはあちらだった。キバナがはぁ、と溜め息をついて上体を引く。やっと諦めたかと安堵した俺は「あのなあ」と口を開いた。結構本気で戦っていたので喋る余裕もなかった。

「俺キスは恋人としかしないよ」

と、俺は当然のことを言った筈だった。だと言うのに、ひどく驚いて青い瞳を見開いたキバナは、少ししてぐ、と眉を顰めて唇を噛んだ。その顔は何だそんなに驚くことじゃねえだろそこまで行くと失礼だぞ。そのままこちらを睨みつけてくるキバナが、押し殺すような声で毒を吐いた。

「…ヤリチンのくせに」

どうやら俺の印象を改めるには至らなかったらしく、ここまで来ると間違いを正して行ったら日が暮れてしまうような気がする。百億歩譲って俺がヤリチンだとして、恋人としかキスしないなんて純然たる最低男だろうに。まあでもそういうヤリチンもいるかもしれないし案外ヤリチンの方が意外とピュアなんだよってかそもそも俺はヤリチンじゃねぇ。もう何だ俺は何回ヤリチンと言えば気が済むのか。

ふう、と逃した溜め息と一緒に、ぐるぐると回る取り留めもない考えも追い出した。こうなったら昔ルリナに相談したとき、鬱になってでもヤリチン疑惑を否定して回るべきだったかと少しげんなりする。懲りずに濡れ衣を掛けてくるキバナからぷいっと目を逸らして、俺はティッシュをもう一枚箱からひっぱり出して、指先を拭った。

「なぁ、じゃあキスじゃなくてセックスならできる?」

ぶつけられた問いに、その手が止まる。一瞬何を言われたのか理解が追いつかなくて、無言で斜め上を仰ぎ見てしまった。それからぼんやりキバナの発言のアウトラインが見えてきて、恐らくそうなんだろうな、と思いながら確認をする。振り返ったらかち合った視線は、思いの外真剣味を帯びていて、行儀が悪いと知りつつもキバナに人差し指を向けた。

「キバナと?」

「そう」

そうらしい。今度は自分の顔に向けて指を向ける。

「…俺が?」

「…うん」

少し目を細めたキバナの奇想天外な提案に、思わずぽかんと口を開けてしまった。何言ってんだこの男は。どう考えてもキスよりセックスの方がハードルが高いに決まっているだろうに。どれだけ俺をふしだらな男だと決めつければ気が済むんだ。ここまで来ると怒りを通り越して笑えてくるが、俺はわざと怒っている雰囲気を装って眉間に皺を寄せて笑った。ぐ、とキバナの顔に顔を近付けて、それからとん、と彼の胸を人差し指で突く。

「お断りだね、このヤリチン野郎」

ヤリチンって言ったほうがヤリチン〜!みたいなテンションで、言った。のだけれど、キバナはそうは受け取らなかったらしい。少しだけ目を見開いて、少しだけ表情を強張らせて、そうして、少しだけ息を止めて、よく見ないと気が付かない程度に薄っすら、本当に薄っすらだが、傷付いたように声を震わせた。

「ち、がうし」

「ふーん、あっそ」

沈んだ声で、キバナがぽつりと呟く。少し気掛かりな落ち込み方だが、これでキバナもヤリチンのレッテルを貼られるのが虚しくて悲しい事だと分かっただろう。反省してるんだったら、まぁ、許してやらんでもない。俺はティッシュで拭いきれていない爪の残骸を洗い流すため、立ち上がって洗面所に向かった。まったく、腐っても好きな相手に冗談でもこんな風に迫られて、本当に食ってかからない俺のどこがヤリチンだというのか。

「…違うからな」

後ろからくぐもったキバナの声が追い掛けて来る。ハイハイ分かったよ。そう言おうと振り向くと、キバナはソファの背もたれに向かって蹲って、ソファに置いてあったラプラスドールをぎゅっと抱き込んでいた。キバナは俺を貶すくせに、言われたらそうやって傷付きましたアピールをするんだから、勘弁してほしい。




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