脳内辞典



【ぬかるみ】
16



「ポプラ」

呼ばれて、ポプラは振り返った。ルミナスメイズの森、そのキノコの後ろから若い女が手を振っている。ご機嫌よう、そう柔和に笑った女がぼんやりと発光するキノコにもたれ掛かって両手で頬杖をついた。ぽわん、とキノコが凹んで、足元からベロバーが走って逃げていく。

「ご機嫌だね、ナマエ」

ガラルの妖精。そんな異名がつくほど、ナマエの歌声は有名だった。或る人はチルタリス、或る人はラプラス、或る人はフライゴンの羽音。そんなふうに彼女の歌声を例えるが、そのどれもに当てはまり、そのどれもに当てはまらないとポプラは思っている。

彼女の家は知らない。歌手として活動しているナマエはガラル中を飛び回りその歌声を披露していた。ラジオのCMに、病院の慰問に、孤児院の子守唄に、テレビの歌番組に。殆どホテル暮らしと言っても過言ではないナマエの歌は、誰だって一度は耳にした事がある筈だ。そうしてその息抜きにと、ナマエはルミナスメイズの森で歌を歌うことがある。

「今日は何の歌だい」

歌の息抜きに歌。ナマエは真に歌が好きで、そしてガラルの人間も彼女の歌を愛していた。勿論ポケモンも。このルミナスメイズの森には悪戯好きのフェアリーポケモンたちが多く棲むが、そのポケモンたちですらナマエが歌うとなるとその周りに人だかり、ポケモンだかりを作るのだ。

近くを歩いていたガラルポニータが、ナマエに気がついて嬉々としてその足元に侍った。先程走って逃げたベロバーも恐る恐るといった様子でその横に座る。ちらほらと集まってくるポケモン達を嬉しそうに見回して、ナマエは最後に幸せそうに笑ってポプラの問いに答えた。

「ほろびのうたよ、ポプラ」

「ポプラさん」

声を掛けられて、ポプラが我にかえる。振り返れば、迎えに来たらしいビートがポプラを見上げていた。ビートは腕にかけていたポプラの外套を彼女の肩に掛けながら、サイズのあった腕時計を一瞥して言った。

「もう冷えますよ」

「おや、そんな時間かい、戻ろうね」

見れば、もう針は二つとも真下を指していた。確かに空も暗くなってきていたところだ。キノコが光っていたので、日が傾いていた事にあまり気が付かなかったようだ。

「…ビート、ナマエって歌手を知っているかい」

ぽつり、とポプラがビートに問うた。その問いに、素直な少年は少し思案して、首を傾げる。

「…わかりません、歌を聞けばわかるかもしれません」

ポプラは微笑んだ。いいや、分からない。ビートは分からないだろう。彼女の歌は色々な歌手にカバーされて、もう彼女の歌ではなくなってしまった。あの歌声がそのままテレビやラジオに流れる事はなくなってしまった。その歌を聴いたところで、ナマエの魂を削るような歌声は一切浮かばないはずだ。ポプラが昔女優だったと知る人物がいても、実際にその演技を見た若い世代が少ないのと同じことだ。

「誰と話していたんです?」

ビートが首を傾げる。先程までポプラが見ていた、その視線の先にはガラルポニータと、その横に座っているベロバーがいるばかりだった。

「…ルミナスメイズの妖精さ」

ガラルの妖精。そんな名前で彼女を縛り付けておいて、死んで数十年程度しか経っていないのに彼女を忘れてしまうようなガラルに、ナマエをやるものか。自分の舞台の幕の間に観客を沸かせた彼女の歌声を思い出しながら、ポプラはそっと踵を返した。その後ろのキノコが、ぽわんと胞子を撒き散らしながら一つ弾んだ。










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