脳内辞典



【素足】
12



床にぺたりと座って、膝を抱えて蹲っている。晒された足の指が冷たくて、手で爪先を触った。微かに手のほうが温かい。握り込んで擦って、無理矢理に体温を上げる。膝に乗せた額を徐ろに上げて、視線だけで周りを見回したナマエは、深い溜め息を吐きながらまた膝に顔を埋めた。もう、こうしてどのくらい経つだろうか。

ナマエが地下牢に閉じ込められてもうずいぶんと時間が経ったような気がする。元々召使いのナマエの服はただの布切れも同然で、石の冷たさが直に伝わってくるこの牢でずっと凍えながらただ時が過ぎるのを待っていた。

ふくふくと柔らかかった子供の手は鶏がらのように肉が落ちて、満足な食事もなく体温も下がる。衰弱して死を待つだけのナマエの顔は、齢一桁と思えないくらいには思い詰めた表情をしていた。

元々ナマエは、一つの遺伝子から量産された兵士のうちのひとつだった。この国、ジェルマで暮らす兵士の殆どがクローン体であり、使い捨てであり、道具だ。ナマエはその中でも生産ラインから外れた、いわゆる産業廃棄物になる予定のものだった。二十歳の大きさになるまで培養液で育てられる筈だったナマエ、その培養カプセルが研究員の不手際により破損したのだ。まだ五歳ほどの子供が、誤って生まれ、意思を持ち、そしてその瞬間に己の運命を悟った。

「こ、ろさな、ころさないで」

それがナマエの産声だった。地下プラントを見学していたレイジュの耳に、そんな子供の声が届いたのは運命だったのかもしれない。

レイジュの世話係として命を永らえたナマエは、彼女の後をついて回りながら身の回りの世話をして、時に話し相手になり、邪魔にならないよう気配を消す。培養カプセルとは違う環境に触れたからか、ナマエの容姿は少しずつ量産の兵士達とは離れて行った。だからだろうか、レイジュの父であるジャッジ、つまり主人の意向に逆らったのは。

「ナマエ」

牢の前に立ったレイジュが、ナマエの名前を呼んだ。一瞬驚いたように固まったナマエが思い切り顔を上げると、そこには泣き腫らした目のレイジュがいる。ひい、と絶句して大きく息を吸ったナマエが、珍しく大きな声を上げた。

「レイジュ様!?なりません、こんな汚いところに…!」

ずり、と座ったまま後退したナマエ。一度鼻をすすったレイジュは、二人の間を阻む格子に手を掛けて、造作もなくぐい、と両脇に圧し曲げてみせた。ぎゃあ、と情けない声を上げるナマエに、極めて冷静な声で告げる。

「サンジを逃したわ、貴方も早く行きなさい」

「え」

早く。もう一度重ねたレイジュの声に、ナマエはくしゃりと顔を歪ませた。怪訝そうにしたレイジュの視線の先で、ナマエは床に視線を落として頭を垂れる。ずり、と膝を床に擦るようにして、ナマエは覚悟を決めるように正座に座り直した。

「おれは、おれはレイジュ様の…あの、もう、おれ、いりませんか」

前髪に隠れて、へら、と笑った口元だけが見える。思いもよらないナマエの縋るような言葉に、幼いレイジュは眉間に皺を寄せて首を傾げた。それならば、ナマエがこの牢に閉じ込められる要因となった行動は一体どういう事だったのだろうか。

「お待ちください!なりません!例えジャッジ様でもそのような…!おやめください!どうか!」

レイジュは、その時のジャッジのゴミを見るような顔を思い出した。サンジの襟首を引っ掴んで連れて行こうとするジャッジの腕に縋りついたナマエはどう足掻いたって彼を止める力量はないし、情に訴えかけるのにこれ以上適さない相手はいないだろう。現にその時、実の息子であるサンジですら容赦なくジャッジの視界から排除されるところだったのだから。

「…レイジュ、玩具は決まった場所に片付けておけ」

「え」

事も無げにそういったジャッジに、レイジュはそう声を上げる事しか出来なかった。容赦なく払い落とされて、打ち所が悪かったのか気を失ったナマエと泣き喚くサンジ。ただ荷物を運ぶようにその二人を引っ掴んだジャッジは、平然と牢に足を向けた。誰だって王たるジャッジには逆らえない。そんなこと分かりきっているのに、ささやかな抵抗(ナマエにとっては一世一代の決心だったのだろう)を見せたナマエは、きっとこの国を出て行きたいのだと、レイジュは思っていたのに。

「…じゃあ、なぜあんな事をしたの?」

ぽつり、静まりかえるそこに響いた小さな問いに、ナマエはぐっと唇を引き結んで額を床に擦り付けた。泣くのを我慢するような声が、情けなくもレイジュに白状する。

「レイジュ様が、サンジ様を愛していらっしゃるので…」

ずず、と鼻を啜り上げる音が、下がった頭から聞こえる。泣いているのだ、この道具は。可哀想に。そう思いながらレイジュはそっと目を伏せた。あの時、レイジュが死にそこないのナマエを拾わなければ、こんなふうに「愛」とかいう迷信を知らずに済んだのだ。この国で愛を知っていたのは、せいぜいレイジュの母のソラくらいだったろう。もう、彼女がいない今、この国に「愛」なんてものは存在しないのだ。

「…ばかね…勝手になさい」

レイジュの言葉に身体を起こしたナマエは、レイジュの顔を見上げて、ぐしゃぐしゃになった顔もそのままにへら、と笑みを浮かべた。本当の馬鹿だ。折角愛のある世界へ逃げられるチャンスだったのに。

「ありがとう、ございます、ありがとうございます…!」

生まれてからずっと閉じ込められてきた鳥は、籠が開いても外に逃げない。そんな話を思い出した。哀れな子供だと思う。ナマエにとって、この国で生きていく事は辛かろうに。けれどナマエの翼を千切ったのは、他でもないレイジュなのだ。







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