脳内辞典



【サナトリウム】
11



いつも、誰もいない砂浜から海を眺めている。数年前に戦闘で両足を失ってから、船を降りてこの島で一人寂しく暮らし始めた。けれどそんなおれ一人の楽園には、たまに来客があるのだ。

読んでいた本から視線を上げると、おれの周りに影を落とす木の葉の向こうに、雲一つない晴天が広がっていた。この本を読むのは一体何度目だろう。小屋の外側に引っ掛けたハンモックにごろんと状態まで倒して、尻だけでなく全体重をかける。ハンモックというより漁業用の網の上に布を敷いただけのもので伸縮性も何もない。それでも砂の上に直に寝るよりは随分とましなものだった。

くあ、とあくびをする。本を読んだところまで開いたまま、胸の上に伏せて目を閉じた。この先の展開は、覚えてしまうほど繰り返し読んだ。それならば昼寝でもしたほうが建設的だ。そう思って深く息を吸い込んだ、ところで、鼓膜に届いた音にすぐ目を開けて、はっとして上半身を起こした。

海を見ると、遠くの水平線から飛沫を立てて小さな帆船が近付いてきている。だが帆船はあんなに大きな飛沫など立てないし、そもそも見たところ、帆は畳まれていた。ボ、ボ、と継続的に音を立てて海の上を走るそれは、メラメラの実の能力者が使えるように調整された、ストライカーという乗り物だ。おれは間抜け面で暫く近付いてくる彼を見詰めて、それから持っていた本をハンモックに投げ出した。

「エ〜ス〜!?」

海の上を走る船に手を振ると、おれの姿を見止めたのか船上の男がぶんぶんと千切れんばかりに片手を振った。おれは小屋に固定したハンモックから飛び降りる。さく、と義足が砂浜に埋まった。ゴオッ、とストライカーのまま砂浜に乗り上げたエースが、それを寝かせてこちらに駆け寄ってくる。

「ナマエ〜!」

「エ〜ス!?エ〜スか!元気だっ、どわっ!」

砂浜をものともせず走ってくるエースを両手を広げて受け止めようとしたが、あまりの勢いの強さに後ろに倒れそうになった。堪らずにその身体を振り回すように抱き上げて一回転して勢いを逃がす。ぎりぎり倒れることもなくひと安心していると、エースが勢い良く顔を上げて歯を見せて笑った。

「おれがいなくて寂しかったろ!へへ!」

きゅーん。ちょうぜつかわいいおれの恋人。ハァ〜、と口から愛しさ交じりの吐息が勝手に漏れて、一度離れた距離をまた抱き締めて縮めた。

「っったりめーだろォおれの太陽〜!何だよ最近忙しそうじゃねーかよォ!」

ぐりぐり、とエースの肩口に頭を押し付けると、くすぐったそうに笑われる。それからエースもおれの背中に腕を回して、頭に手のひらを乗せるように撫でた。その声色がしゅん、と落ち着く。

「…おう、わりィ、今日も顔見せに来ただけだ」

「…そっかそっか、残念だけどそれでも嬉しいぜエ〜ス!」

ぽんぽん、とおれもエースの背中を撫でる。ゆっくり身体を離して背中にぶら下がったオレンジの帽子を頭に乗せてやれば、エースがおれの腕の中からするりと抜けた。

「そういうことだから、じゃあな!」

「えっ、マジでもう行くの?」

「おう!」

思ったより残念そうな声が出てしまう。くるりとこちらに背中を向けてストライカーを立て直し始めるエースを目を丸くしたまま見ていると、ふと思い出したように彼が振り向いた。魔法のようなバランスでストライカーが砂上に直立する。ざくざくと足音を立てながらもう一度おれの前に戻ったエースは、首を傾げたおれの襟刳りを両手で掴んでぐっと顔を近付けて、大声で言った。

「浮気すんなよ!」

本人は至って真面目に言っているらしい。眉間に皺を寄せたエースの言葉に思わずはあ、と気の抜けた返事をしてしまった。

「ウワキィ〜?何とすりゃいいんだ?鳥?魚か?」

「蟹!」

茶化すように言ったおれにムッとした顔をして、エースがおれの首に強く手を回した。引っ張られるようにしがみつかれて思わずへへ、と変な笑いがこみ上げる。蟹だって。確かにうまいけど、浮気相手にするにはちょっと脚が多すぎる。

「安心しろ、蟹はタイプじゃねえ」

寧ろ蟹が恋愛対象に入るのは人としてワンランク上の領域にいる気がしないでもない。ぎゅう、とエースの腰を応えるように抱き締めたあと緩めれば、エースも手の力を抜いて身体一つ分の距離を取って、それから不意打ちのようにちゅ、とおれの唇に触れるだけのキスをした。

「…またすぐ来るから、元気にしてろ」

「待ってるぜ、いつでも来な」

今度はこちらから唇を寄せる。しし、と笑ったエースが踵を返して、砂に立つストライカーに向かって走った。その背中に向かって念を押すように声を掛ける。と、ストライカーに片足を乗せたエースが振り向いて、空と海をバックに満面の笑みを見せた。

「気を付けてけ!」

「おう!すぐだからな!」

エースの足元で、ごう、と炎が沸き起こる。その推進力で足を水面につけることなく、エースは海に漕ぎ出した。振り返った彼の片手がテンガロンハットを押さえる。その下の顔が笑っているのを見て、気が付いたらおれも同じ顔をしていた。




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