サナトリウムでおやすみ


∴マリポーサの微睡み

小さな頃から、おかしな夢を見ることが多かった。俺が、俺と同じ名前で同じ顔の人間になって、どこか知らない場所で生活している夢だ。大抵の場面が堅苦しい建物の中で、周りは皆名前に「軍曹」や「少尉」や「中佐」とかいう敬称を付けて呼び合っている。かく言う俺は、というと。

「ミョウジ大佐」

「ロシナンテ、戻ったのか」

「少尉です、ミョウジ大佐」

むっつり、と俺よりも高い位置で、俺よりも長身の少年が不満げに頬を膨らませる。そんな仕草をするなんて、まだまだ子供ですと自己申告しているようなものだ。そんなところが彼の良さでもあるので黙っておくことにして。

彼は、ロシナンテ。というのは、俺が知らない人間相手でも、夢の中の俺は知っている人物として認識しており、名前も自然と口をついて出る。俺はこんなふうに大佐だなんて呼ばれて、結構ここでは偉い人間らしい。

ここが海軍だということは、夢の中の俺が知っているから俺も知っている。三十半ばの俺は順当な昇進で中央大佐の椅子に座っている、らしい。かと言ってやはりここは現実では入ったことのない場所だから、何となく違和感がある。小さな頃から頻繁にこんな夢を見るせいで、俺は殆どここでしっかりと生活していると言ってもいいくらいにこの場所の勝手を知っていた。

「すまなかった、中尉、ロシナンテ中尉だな…ん?いつの間にやら昇進したか?」

そうだ。確かこの間まで彼は、少尉だったはず。あれ、と目を丸くすれば、ロシナンテも面食らって、それからむっつりと口をへの字に曲げた。

「もう一ヶ月も前になりますね、報告もしましたが」

「あれ、そうだったかな…」

「まったく、忘れないでください、ミョウジ大佐」

いやいや、これは失敬。ははは、と笑いながら自分の頭を頭をわしわしと掻いた。最近歳のせいか、どうも物忘れがひどいような気がする。そりゃロシナンテに比べたら俺は二十近くも歳上なのだから、おじさんもおじさんだ。もう、と拗ねたような顔をするロシナンテの胸辺りまでそっと腕を上げる。丁度俺が、背の高い彼に向けて思い切り腕を持ち上げたその高さだ。それが何を意味するかは、もう俺とロシナンテの間ではお馴染みである。

俺の挙げられた手を見て、ロシナンテが微かに頬を染めた。それからキョロキョロと誰もいない廊下を見回して、人の気配がないことを確認する。不満そうに引き結ばれていた口の端がゆる、と僅かに上がって、ロシナンテが伏し目がちに俺の手に向かって屈んだ。ふわふわとした金髪に、努めて優しく触れる。

「昇進おめでとう、頑張ったな」

「…ありがとう、ございます」

緩む顔を取り繕いもせず、へへ、とロシナンテが笑う。優しくその髪を撫で付けるが、手を滑らせたそばからまたふわふわとうねり出す猫毛は、まるで紡ぎたての絹糸のように柔らかかった。ふ、と俺もつられて笑い、二、三度撫でた頭からそっと手を離す。

「今日は暇かな?お祝いに美味しいレストランにでも行こうか」

「本当ですか?」

ご馳走するよ。そう言うと、ロシナンテが目をきらきらと輝かせた。中尉に昇進したといえど、俺から見たらまだ子供だ。微笑ましく思いながら自分の財布の中身を思い浮かべる。大丈夫、大した使い道もないし、流石にこの年の男の財布が空なんてことはない。それからふと思いついて、ロシナンテに聞こえるように言った。

「ああ、その後はうちに泊まりにおいで、明日は非番だろう、ロシナンテ」

「えっ!」

「えっ?」

目を丸くしたロシナンテに、俺も思わず声を上げる。何かおかしなことを言っただろうか。促すようにロシナンテに向かって首を傾げると、我に帰った彼がぼっ、と顔を赤くした。

「や、な、何でもないです!…泊まって、いいんですか?」

百面相、とまでは行かないが、表情の変化がめまぐるしい。ぶんぶんと否定するように腕を振り回したり顔を赤くしたり、口元を隠してみたり気がついたように顔をしかめてみたり。それにつられて俺も思わず「君は本当に面白いな、ロシナンテ」と肩を弾ませて笑う。赤い顔のままむう、と唇を尖らせたロシナンテが、満更でもなさそうに指摘した。

「ロシナンテ中尉です、ナマエさん」

「ふふ、君だって」

きみだって、そうやって俺を名前で呼ぶくせに。

「寝言か?ナマエ」

突然横から声を掛けられて、は、と我に帰る。咄嗟に瞼を押し開けて、目に入ったのは白い天井。見たことは、ある、見慣れている、間違いない。ここは、ふと横を見ると、男性が一人。ソファに寝そべる俺を、上から見下ろしていた。身寄りの無かった俺を施設から引取ってくれた、俺の父親代わりの人だ。その顔を呆けたように見つめる俺に、どうした、と彼が首を傾げた。その仕草を見て、何故だかつん、と目頭が熱くなった。

「…また、彼のゆめを」

掠れた声が喉から溢れる。父親、センゴクの表情が曇って、それが悲しそうに、緩やかな微笑みに変わった。

「夢を見たんです」

「…そうか」

武骨な手が、俺の髪をそっと梳かす。いつの間にか胸に溜まっていた息をゆっくりと吐き出しながら目を閉じると、つ、と自分の目尻から水滴がひとつ伝った。その手の暖かさに深い安堵で満たされる。

小さな頃から、こんな、おかしな夢を見ることが多かった。どこだか分からない場所で、誰だか分からない人間と、当たり前のように会話する夢。その絹糸のような髪の柔らかさも、日の光のような暖かさも、全て、この手が覚えている。夢とは、夢とは頬をつねれば痛くないものなのではなかったのか。なぜ俺のこの手は彼の感触をこんなにも覚えているのか。す、と胸を膨らませるように息を吸って、目を開ける。父さんの表情は、逆光と眼鏡に隠れてよく見えない。

「胡蝶の夢、ですね」

誰だったか、昔の人が言ったことだ。蝶になった夢と、人間である自分、本当に夢であるのはどちらだろうか、だなんて。いつか本か何かで読んだ。今の俺と、全く同じだ。

「どちらが本当の俺なのか、俺にも分からない」

つ、とまた一つ、涙が流れていった。さっき通り過ぎたところを、辿るようにもう一度。ああ、なぜ涙が溢れるのか。覚えのない夢のくせに、知らない男のくせに、なぜあの金髪の男の微笑みが俺の頭の中で巣食うように繰り返されるのか。なぜ、なぜいいようのない安らぎと、焦がれるような愛おしさが胸を満たすのか。

「誰なんだ、誰なんですか、あのひとは、俺の、おれの」

一瞬、父さんの手に不自然に力が篭もる。それから、ふ、と彼も浅く息を吐いて、そっと首を横に振った。さら、とまた俺の髪を撫でた。

「…冷えるだろう、部屋に戻って眠りなさい、ナマエ」

そう言って、父さんは俺の頭を一つ撫でて、そっと背を向ける。その背中はどこか淋しげで、俺は口を噤んでしまうしかなかったのだ。そっと身体を起こして、そっと自分の額に触れる。撫でられた頭と、撫でた指先の感触が、どちらも俺の肌に鮮明に残っていた。






マリポーサの微睡み




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