サナトリウムでおやすみ


∴ともだちの殺し方

壁を陣取る大きな嵌め殺しの窓は、病院の裏山の木々を絵画のように切り取っている。その緑を背景にして、床に着いた状態から身体を起こした男が、病室の扉を引いた俺を振り返った。

「…よ」

控えめに、ドアの隙間から顔を覗かせて恐る恐る片手を上げる。こちらを見て目を零れ落ちんばかりに開いた男、ナマエは、はく、と口を開閉したあと色々な感情がごちゃまぜになった表情で顔を大きく歪ませた。それを泣き笑いに落ち着けてから、震える声で俺の名前を呼ぶ。

「……エー、ス?」

「おう…俺は、エースです、よろしく」

「…んなこと、知ってるよ…はは、エース、エースだ…」

よかった、いきて、いたんだな。その言葉と共に、ナマエの目からぼろりと涙が零れ落ちた。

生きていたんだな、なんて大袈裟だ。と俺が何も知らなければそう思うだろう。病室の中に入って扉を閉めると、カチャリ、と音がした。だが、今のナマエにとってはその限りではないのだそうだ。と、ついさっきの出来事を思い返す。

「怪我は縫合しました、そんなに大きな傷でもないですし、すぐに治るでしょう、脳波にも異常はない…ですが、強く頭を打った衝撃で記憶が混濁しているようです、それと」

彼はどうやら、転生者のようですね。そう声のトーンを落として医者が言ったのを、俺は呆然と聞いた。記憶の混濁って、なんだよ。そう問い詰めたい気持ちもあったが、それよりもたいへんな話を聞いた気がする。

転生者というのは、前世の記憶を持って生まれた人間のこと、ということになっている。表向きは。でもこの世界に初めて現れた転生者を名乗る男が「記憶をもっていなくても殆どが前世から生まれ変わった人間だ」なんて言ったらしい。

そいつの話では、自分が覚えている前世の知り合いと同じ名前、同じ姿をした人間が、その記憶こそ持たないものの同じような性格、考え方で暮らしていたそうだ。それを妄言だと呆れた人もいたし、目を輝かせて噂した人もいたし、その話を根拠に新しく宗教を作った人もいたし、なんなら自分も転生者だと手を上げた人間もいたという。

ナマエも、その転生者だって言うんだ。この医者は。ごくり、と思わず固唾を呑み込んだ。知らない。ナマエに前世の記憶があったなんて。俺はナマエを一番中のいい友達だと思っていたのに、黙っていたのだ、あいつは。それとも強く頭を打ったと言っていたし、その衝撃で記憶がひょっこり顔を出したのだろうか。

「ナマエが自分は転生者だって言った、んですか?」

取ってつけたような敬語になってしまった。が、医者は気にした様子はなく首を横に振る。気の毒そうな顔をして、もう一度口を開いた。

「現在の記憶が全て抜け落ちて…前世の記憶しか、残っていないようです」

それを聞いて言葉を失った。全身から力が抜けて、くら、と目眩がする。なんて事だ。俺のせいで。階段から落ちそうになった俺を庇って、代わりに落ちたのだ、ナマエは。そのせいであいつは記憶を失ってしまった。意識を飛ばして静かに横たわるナマエを前にしたとき、俺がどれだけ狼狽えたか。

現世の記憶がないと言うことは、恐らく俺が誰かも分からないのではないだろうか。少なくとも俺に前世の記憶はないし、ナマエと前世で交友があったかどうかも分からない。つまり全くの初対面とほぼ変わらない状態になる。それはもう、俺の知っているナマエでは、ないだろう。

ならば、俺のこの今までの涙ぐましい努力は。一番の友達の位置から虎視眈々と生涯ずっとナマエの隣を独占してやろうと、ずっと図々しく居座り続けたこの恋心はどうなる。また一からやりなおし、それとも記憶が戻るまでの一時休戦か。

「もっと近くに来てくれ、触りたい、エース」

と、思っていた、のに。

包帯の巻かれた腕がこちらに伸ばされて、思わず口籠る。ナマエに触りたい、と言われたことなんてこれまでなかった。触ることを目的として、そんな風に乞うように名前を呼ばれるなんて。どくり、と心拍が荒れたのが分かる。え、とかあー、とかまごついてその場に立ち尽くしていると、傷付いたように表情を曇らせたナマエが手を引っ込めて頭を抱えた。

「…いや、そうだ、ごめん、医者に言われたんだった、おれたちは今、初対面みたいなものなんだよな」

ごめん。もう一度繰り返したナマエが自嘲するように喉の奥で笑った。その笑みに胸が締め付けられる。ナマエは、前世のナマエは前世の俺の事を知っている。知っているどころか、これは恐らく。

「…好きなのか」

「……」

「好きなのか、ナマエ、俺のこと」

不躾な、デリカシーのない質問だと分かっている。それどころか記憶がごちゃごちゃになっている人間に更に悩みの種を植え付けていることも。それでも、ナマエの微笑みにその疑問をぶつけざるをえなかった。

「…お前、俺のせいで怪我しても、好きなのか」

医者は、ナマエは恐らく転生者だと言っていた。それならナマエはずっと、俺と初めて会ったときから俺のことを知っていたことになる。しかも、前世のナマエが俺のことが好きなら、こいつは、前世からずっと俺のことが好きだったのに前世の記憶の存在共々ずっとそれを黙っていたことになる。

かと言って、怪我をした瞬間はおろか現世の記憶まてすっぱり無くしてしまった男にこんな問いをぶつけたって意味がないだろう。前世は俺のことを好いていても、もしかしたら今現在のナマエはもうそんな気はなかった、ということもあったかもしれない。でも、今のナマエは、俺をこんなにも柔らかい瞳で見るから。そうだ、俺は卑怯だ。卑怯と分かっていてもナマエからその言葉を言わせたかった。ゆったりと、ナマエの唇が動く。

「…お前が傷つくくらいなら、代わりにおれが死んでもいいと思うくらいにはね」

じん、と目頭が熱くなる。きっとお互いに酷い顔をしているに違いない。ぐ、と目の下に力を入れた俺の顔を見て、ナマエは少し驚いてから微笑んで、もう一度俺に向けて手を伸ばした。

「触れていい、という顔だ」

おいで、エース。そう泣きそうに笑うナマエを前にして、足が竦む。手を伸ばしていいのか。だって、俺の知っているナマエはずっと俺の一番の友達だったから。そんな風に俺を呼んだことも、そんな風に俺に笑ったことも、そこまで考えて、あれ、と思う。あったろうか。わからない、まるで俺の記憶が消えてしまったかのようだ。今のナマエの、強烈な熱量に上書きされてしまう。

「…だめだ」

駄目だ。いなくなってしまう。俺の知っているナマエが。全て今の目の前の男に、自分の劣情に飲み込まれてしまう。は、と喉に詰まっていた空気を吐き出す。怖くて強張る身体と同じように、絞り出した声も震えていた。

「駄目だ、ナマエ、いなくならないで…」

俺とふざけあった声で、そんなに愛おしそうに名前を呼ばないでくれ。そんな風に俺を誘惑しないでほしい。ナマエに比べたら長くはないが、俺の抉らせた恋心なんてものはすぐその誘いに乗ってしまいたくなるから。

「お前も、もうおれの側からいなくならないでくれ」

ほら、俺の知らない男の言葉でも、お前の言葉に聞こえてしまう。まるでこれで正しいんだと言われているように、俺はフラフラとナマエのベッドに近付いた。花が綻ぶように笑った男にぐい、と腕を引かれる。

「今度こそはお前を守らせてくれ、どんな手を使っても」

いいよ、守らなくていい。だから教えてくれ。ナマエの知っている俺とお前のこと。俺は覚えてる限りのナマエの事を話すよ。遺しておいてほしい、俺達が友達だったってこと。ぎゅう、と俺の体を捕まえて抱き締めるナマエの腕を、宥めるようにそっと撫でる。ああ、俺は今友達を一人殺してしまったのだ、と愛しい人の胸で泣きながら思った。






ともだちの殺し方



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