サナトリウムでおやすみ


∴シェフ自慢の海鮮ピラフ思い出風

「はぁ〜…」

酷く疲れた。まるで尻が椅子と同化してしまっているようだ。だからといってこんなおしゃれな雰囲気のレストランでまさか靴を脱いだり床に寝転んだりなんて出来るはずがない。

頭がまだ高速回転の余韻でぼんやりとしている。久し振りに会ったロビンさんと、つい熱くなって大海賊時代の歴史について議論を交してしまった。彼女の海のような果てない知識にそんなのどこで学んだんだ、と思いつつ毎回食い入るように話を聞いてしまう。今は古書店で働いていると言っていたが、やはり彼女は考古学者も真っ青になるほどの知恵者だ。

もうスーパーに寄って買い物をするのも億劫だ。こういう時独身は辛い。家に帰っても電気すら点いていないというのはやはり堪えることがあるし、だからこそこんな風に外食が増えてしまうのだろう。もうそろそろ健康状態を気にし始めた方がいい年だろうか。

「いらっしゃいませ」

ウエイターが、俺の前に水の入ったコップとメニューを置く。ありがとうございます、と言った俺に一礼した彼は音もなく下がっていった。重厚なデザインのメニューだ。もしかして高いところ入っちゃったかなぁ、と心臓のあたりがひやりとした。

ここは、ロビンさんにおすすめして貰ったレストランだ。元々この島の出身ではない俺よりもここを熟知した彼女に教えてもらった。俺もこの島に引っ越してきて何年か経つが、流石に島全ての施設を網羅するには至っていないし。周りを見渡すと結構な盛況ぶりだし、上品なお客さんが多いように見える。と、思った所でいやいや、と首を横に振る。あんなに優しいロビンさんが安月給の学芸員に高いレストランなんて薦めたりしない筈だ。それにもし高くたって、たまの自分へのご褒美だと思えばいいだろう。

「よし」

意を決してメニューを開く。スッキリとしたフォントに写真付きのページはなるほど見やすく、見たところ想像していたよりはリーズナブルだ。海鮮の食材が多いのは、この島が観光に特化してあまり山の幸に恵まれていないからなのだろうか。

前から一枚ずつメニューを捲っていく。ロビンさんが言うに海鮮ピラフが美味しいらしいので、メインディッシュのページで手を止めた。中々にメニューも豊富だ。海鮮ピラフと、スープメニューから海ブタベーコンのスープを選ぶ。最近の激務で正直疲れている自覚はある。ぱたん、とメニューを閉じる、と。

「お決まりですか、ムッシュ」

「わっ!?」

既に横に男が立っていた。思わず出てしまった声に驚いて今更ながらに口元に手をやると、金髪のウエイターが柔和に笑った。

「失礼、驚かせてしまったようで」

「い、いえ…あ、注文いいですか…?」

「お聞きします」

メモを取り出そうとする素振りも見せずにそのまま微笑む彼を見遣ると、目で注文を言うように促される。おお、メモを取るまでもなく覚えられるということか、と感心しながらメニュー欄の写真を指差した。

「この海鮮ピラフと、海ブタベーコンのスープで…」

「かしこまりました」

一礼したウエイターがそのままキッチンに引っ込む。一流の店とはこういう事なのかもしれない、と衝撃を受けながらそっとメニューに視線を落とす。これ以上頼むつもりは無いが、まるで料理の写真集のようで、見ているだけで暇が潰せそうだ。

と、どのくらい見ていただろうか。後ろから「失礼」と声を掛けられて振り返ると、スープ皿を持った男が斜め後ろからそれを俺の前に置いた。落ち着いた声でウエイターが。

「海ブタベーコンのスープ、シーケルプベースです、ムッシュ」

と言う。立ち上る湯気。皿の底がそのまま見えるような透き通ったスープに、鮮やかな色の具材が沈んでいる。ふわりと漂った優しい香りに、勝手に唾を飲み込んだ喉が鳴った。暫しその洗練された佇まいを眺めてから、いそいそとスプーンを手に取った。料理は温かいうちに食べてしまう方が良い。スプーンでふわりと沈んだ具材を泳がせる。それから主役のベーコンをすくい上げて、スープと共に口に一口流し込んだ。

「え…うんま…」

俺の意識と離れた所で、勝手に口から感想が溢れる。無理もない。俺はこんな美味いスープ、生まれて初めて食ったと断言できるからだ。手が止まらない。横でウエイターの男が微笑ましげに見ているのも気にならないくらいだ。

「どうも」

落ち着いた声でそう言って微笑んだ男は、また一礼して踵を返した。その間も、俺はスープを飲み続けていた。疲れた身体に染み渡るような、細胞の隙間に入り込むような味だ。いくらでも飲めるなこれ、さすがロビンさんおすすめのレストランだ。ちょうどスープ皿が空になったところで、また同じウエイターがテーブルにやって来た。そっと目の前に置かれたのは、もちろん俺が注文した海鮮ピラフだ。

「お待たせ致しました、シェフのおすすめシーフードピラフ、イーストブルー風です」

艶々と米粒一つ一つが輝いている。これは絶対に美味い。そう食べる前から確信するが、何故か、手が動かない。身体の自由が利かない訳ではない、どうしてだ。今、このピラフを食べるよりも何か重要なことがあるのではないか、何故だかそんな考えがふと頭に浮かんだのだ。

「お客様?」

ウエイターの男に声を掛けられて我にかえる。否、食べるために用意された料理だろう、これは。それを食べる以上に重要な事などあるだろうか。軽く首を左右に振って余計な考えを追い払う。駄目だ、きっと俺は疲れている。すみません、と一言ウエイターに告げてスプーンを手に取った。早く食べて帰って寝よう。そう思いながら、ほかほかと湯気を放つピラフを山盛り舌の上に乗せた。

「……、ん?」

美味しい。とても。先程のスープと同じくらい非の打ち所がない。とても、俺好みの。

そう思った瞬間に、ぶわりと両目から涙が溢れた。理由は分からない。咀嚼しながら、自分でも戸惑いが隠せなかった。お洒落なテーブルの白いクロスにぽたり、ぽたりと雫の染みができるのを呆然と眺める。ぷりっとした海老を噛み切りながらテーブルに備え付けられたペーパーナプキンで涙を拭う。泣くか食うかどっちかにしろ、と誰かに言われそうだ。いや、誰かって、誰に。

「実はね、そのピラフ、おれが作ったんですよ」

どうぞ、と横から白いハンカチーフが差し出される。彼の方を見ると、別段驚いた様子もなくウエイターが立っていた。泣くだなんて、失礼だったろうか。ハンカチを好意として受け取り、口の中にパンパンに詰め込んだピラフをごくりと飲み込んで泣き笑いで言う。

「すみません、美味しいからかな、すごく美味しくて、涙が、こんな美味しい料理…」

初めて食べました。そう続けようとしたが、つい違和感に言葉が詰まる。初めて、初めてだろうか。思い出そうとしても、俺にはこんなに美味いピラフを食べた記憶なんてない。けれど、身体のどこか、否、心のどこかで俺はこの味を知っている。いつ、どこで、何も思い出せないけれど、知っている筈だ。ハンカチで涙を拭って、また一口ピラフを口に突っ込む。横に立ったままの金髪のウエイター、否、コックがくく、と喉の奥で笑った。

「ええ、クソうまいでしょう」

ああ、彼のその優しい笑みの意味を聞けば、この気持ちが何なのか理解できるのだろうか。懐かしいような新しいような、狂おしく切ないこの気持ちの理由が。







シェフ自慢の海鮮ピラフ思い出風


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