サナトリウムでおやすみ


∴浜辺の箱庭

窓からふわりと潮の香りの風が舞い込んだ。瞼を擽った前髪を中指で流し、すぐ左側にあるベランダの方を一瞥する。ここ、教室からは、いつも海が見える。どこかの島からかやってきたらしいフェリーが優雅に海王類の頭上を通過した。

ぱたん、と教科書を閉じて机の横に引っかかっているリュックサックに仕舞う。六限目、世界史の授業が終わって、授業はもう終わりだ。がやがやと騒がしくなる教室の中、おれは椅子に座ったまま一度伸びをした。凝り固まった体のどこかの骨がばきり、と音を立てる。のそり、と立ち上がって椅子を机に押し込んだ。込み上げた欠伸を一つして、もう一度海を見る。ざざん、と開いた窓からおれに語りかける声が聞こえた。ああ、と思う。いつもと変わらない、太陽の光を取り込んで輝く綺麗な海だ。そうだ、そうなのだけれど。

「まーた海見てんのか、お前」

ほんと好きだなー、と、後ろから声を掛けられる。我に返って後ろを振り向けば、違うクラスのはずの幼馴染が愉快そうに笑っていた。授業が終わるなり一緒に帰ろうと直ぐに迎えにくる。それは小学校の頃から変わらない習慣で、おれはそれをどこかむず痒く感じていた。

「ルフィ」

よっ、と片手を上げた幼馴染は、背負った薄っぺらいリュックサックを左肩に追いやって、机の脇のフックからおれのリュックをむしり取るようにして背負った。

「よしっ!帰るぞ!」

にっ、と笑う。その顔は晴れの日の太陽のようだ。変わらない、ずっと。屈託のないその笑顔に、少し眩しいような、気後れしたような心持ちになって思わず目を細めてしまった。

帆船で世界中を旅する時代は、もう随分と昔になってしまった。それこそ、歴史の教科書に載っているような遠い遠い昔だ。その長い過去の出来事が、簡単な文章になって今はおれのリュックにしまわれている。

大海賊時代。黒い太字ですこしだけ目立つように書かれたその言葉に浪漫を感じこそすれど、思い出として懐かしむような人間は、もういない。少なくとも、おれの他にはあの時代を知る者は見たことがないし、そもそもあの頃の知り合いや仲間全員と再会を果たした訳でもない。現在のおれと面識があるのはこのかつての盟友と、その祖父くらいだ。目の前の、ルフィの顔を眺める。なんだ?と怪訝そうな顔をした彼に、願うように口を開いた。

「なあ…海に」

「海?」

「海に、行かないか、ルフィ」

今日は良い天気だ。多少風が冷たいが、それでも半袖で十分事足りる。以外そうに目を丸くしたルフィはうーん、とわざとらしく悩む演技をしてからにしし、と笑った。

「分かった!じゃあ早く行こう!」

ルフィの肩から自分のリュックサックを受け取る。かちゃり、と箸箱の中の箸が擦れる音がして背中に中々の重みが掛かる。この先の展開を予想して、流石にこれを背負って走るのは得策ではないな、と苦笑した。

「もちろん歩いてな」

当たり前だろ!とリュックサックをばし、と一度叩かれる。おい、じゃあその返事の前の少しの間は何だったんだお前。そう尋ねようと思ったが、笑顔に黙殺された。昔からこいつには勝てない。

学校を出てアスファルトの道を少し歩けば、すぐに海が見える。堤防を乗り越えればそこはもう砂浜で、真っ青な空と海がおれ達を待ち構えていた。少し前まで航海していたフェリーは、今はもういない。運動靴に砂が入らないように脱いで、靴下を中に詰めて片手で持った。膝の下まで制服を捲ると、ルフィが口を開く。

「あ、おれ入らねーからな、膝までしか」

「別に泳ぎに来ようとした訳じゃないよ」

びしっと手のひらをこちらに向けて神妙な面持ちをしたルフィにそう答える。前世で悪魔の実を食べたからか、それとも元々カナヅチだからか、ルフィはあまり泳ぐことに対して積極的ではない。まあ、おれが海に行きたいと言ったらついてきてくれるのだから、海自体が嫌いなわけではないんだろうけど。

紐で括り付けてあった麦わら帽子を、ルフィが頭の上に移動させた。うちの学校は校則が緩く、そのトレードマークは常にルフィの後頭部のあたりを陣取っている。頭に被るのは珍しいな、と目を細めた。ざざん、と波が砂浜に打ち上がる音が聞こえる。

眩しいな。急に潮風が目にしみたのかもしれない。麦わら帽子を手で抑えたルフィから視線を逸らして、海に向き直って目を閉じた。

「海はおれにとって、自由の象徴なんだ」

ごう、と風が髪を弄んで通り過ぎる。耳に転がり込んでいく波の音も、足の甲を擽っていく冷たい潮水も、海は何も変わらない。あの頃と、なに一つ。安心するようで、それでも世界は変わっていて、おれだけがただその場に残されているようで、未だおれは何も受け入れられないでいる。目を閉じたまま深呼吸をすると、隣から妙に穏やかな声で返事があった。

「へー、良いこと言うな、お前」

その言葉を聞いてゆっくりと目を開ければ、表面張力で眼孔に留まっていた塩水が頬を滑った。ぱしゃぱしゃ、小さく水飛沫を立ててルフィが海を背にしておれの斜め前に立つ。違う。違うんだルフィ。これはおれの言葉じゃない。海賊は自由なんだとあんなに強い言葉で言ったのは、お前だろう。そんな叫びのような呟きのようなやり場のない気持ちを、吐き出させないのはいつもルフィだ。

「お前さ、海来ると、いつも泣くよな」

お前が来たいっつってんのに。そう困ったように笑うルフィがおれの両手を取って、温めるようにしっかりと握り締める。いつの間にか冷え切っていたおれの手にじわりと移る体温も、その笑顔だってあの頃と変わらなくて、おれは一人冗談のような悪い夢を見ているのではないか、と思ってしまうのだ。

あんなに騒がしくて愛おしい世界は、もうない。誰もいない。ここはきっと、おれの終末なのだ。帰ろう、と言ったルフィの手を握り返して、返事の代わりに一つ頷いた。







浜辺の箱庭




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