サナトリウムでおやすみ


∴何度でも祝福の言葉を

久し振りに、隣の島に働きに出ている妹が帰ってくるという便りが届いた。便り、というよりは電伝虫に届いたメッセージなのだけれど。この島があまり定期便の運行ルートに入らないものだから、帰ってくるのも一苦労なのだろう。盆と正月くらいしか帰ってこない可愛い妹が顔を見せに来るとあって、おれは久し振りに腕を振るおうかと食材を選びに市場まで行ってきたほどに楽しみにしていた。

母親を早くに亡くし、父親は多忙であまり家にいない。おれと妹のソラはそんなに歳が離れているわけでもなかったが、おれはソラの親代わりのつもりで毎日飯を作ったり世話を焼いたりしていたつもりだ。

菓子作りが盛んなこの故郷でパティシエの修行をして食い扶持を稼いで、妹の世話をする。青春時代などないに等しくて、それを意識する度ソラはいつも申し訳無さそうにしていた。だが、おれはそれでも構わなかった。なにより、おれにとってはそんななんでもない日常が何より幸せだったのだ。

今はそうでもないが、昔の妹は体が弱く、何かある度に寝込んでいた。そんな彼女が少しでも健やかに生きられたらいいと、心からそう思う。電伝虫を置いて、ふう、と息を吐く。過保護が過ぎて申し訳ないとは思っているが、平和なこの世界で年頃の妹に定期的に連絡しろなどと強要して、煙たがられないのは妹がいい子だったからだ。

「会わせたい人がいるの」

兄さんに。年頃の妹にそう言われれば、その相手がどんな関係なのか自ずとわかるというものだ。ソラも大きくなった。もう自分の事も自分で出来る年齢だ。どことなくやるせなさのようなものを感じて、そっと腰を上げる。久し振りに、いつもソラに作ってやっていた菓子でも作って待っていようか。ふ、と笑って、キッチンに足を運んだ。

家の呼び鈴が鳴ったのは、おれが小さなケーキを完成させて少しした頃だった。その前にもう一度電伝虫が鳴いて「そろそろ家に着きます」と連絡が入ったのだ。洗っていたボウルを水切り籠に立てかけて、タオルで手を簡単に拭って足取りも軽く玄関に向かう。

「おー、どなた〜?」

玄関の電気をつけて、サンダルを引っ掛けながらドアに近付く。相手が誰だか分かってはいるのだが、ソラにいつも「人が訪ねてきたら誰だか分かってから開けなさい」と教えていた身としては、何も声を掛けずに招き入れる訳には行かない。が、扉には既に手を掛けていた。

「兄さん、わたし!」

「ソ〜ラ〜!おかえり我が妹よ〜!」

聞こえるのが早いか、開けるのが早いか。待ち望んでいた返答に満面の笑みでドアを押し開けた。おれより身長の低い妹。その左側に妹の宣言通りもう一人分人影があったので、自然と視線がそちらに行く。

「……………え」

大柄な男だ。そいつは、顎に長い髪と同じ金色の髭を蓄えていた。普段着の妹とは対象的に、逞しい身体にかっちりとしたスーツを纏っている。その射竦めるような強い目と視線がかち合った瞬間、かっと頭に血が登ったような自覚があった。

「て、めぇ、は」

首を締められたように、声が震える。どっ、どっ、と早鐘を打つ心臓は、破裂してしまいそうだ。勿論、当然の事ながらそこにいい感情など一つも見当たらない。ぐ、と自然と両手が拳を握るのを感じる。ざわざわと、全身の毛が逆立つような感覚。戦慄く唇を噛み締めてそいつを睨みつけると、少し躊躇うように押し黙った男が、一度だけ深呼吸をして口を開いた。

「息災か、義兄上」

ああ、やはりそうだ。その言葉を聞いた瞬間に合点がいった。この男は紛れもなくおれの魂に刻まれた憎い男だ。それも息災か、ときた。この男は覚えているのだ。がりり、とドアノブにおれの爪が擦れる音と、嫌な感触が伝わってくる。ぶつ、と犬歯が唇の皮膚を食い破ったのを感じながら、潰れたようになった肺に無理やり空気を送り込んで、喉を振り絞った。

「て、めぇ…どのツラ、さげて…ッ!」

怒りや憎しみを通り越して、頭痛がする。最早涙すら出てきそうだ。怒声や罵声で殴りつけてやりたいのはやまやまだが、今口を開いても意味のある言葉は出そうにない。飢えた獣のように激しく息をしながら、ゆっくりとその男の胸倉を掴む。そいつは、前世と同じ名前であるならばヴィンスモーク・ジャッジは、その手を振り払う様子もなく、ただおれの目を真っ直ぐに見据えていた。殴られてやる、ということか。その落ち着き払った態度にも腸が煮えくり返る。

「兄さん」

一つも焦った様子のないソラが、微笑んだままおれを呼ぶ。極力優しい顔をしたいのに、今のおれにはそれすら困難だ。目を見開いて眉間に皺を寄せたまま、掴んだ胸ぐらを開放して、怒りを押し殺してソラに問い掛ける。

「ソラ、おれは今度こそお前に、しあわせに」

「あのね、兄さん」

彼女は、目を伏せて笑った。消え入るようなおれの言葉の続きを、案じるように柔らかく受け取る。けれど次に開いた目には決意が満ち溢れていて、何も言えずに唇が震えた。追い打ちをかけるようにソラが口を開く。

「わたしは、いつでも幸せよ」

「…そう、か」

そうか。ソラの言葉を落とし込むように低く呟く。いつでも幸せよ。その重みに戸惑いつつも、肺に詰まった空気をゆっくりと追い出す。あの時、ソラの墓前で泣き喚いていた子供の姿を思い出す。ソラと同じ金色の髪の、まだ幼い子供。ソラの幸せをおれが推し量ることはできない。おれは、妹を失った悲しみのまま、その人生を不幸なものだと決めつけていたのではないか。立つ瀬がないような気持ちになって俯くと、ソラの口から爆弾のような言葉が転がり落ちた。

「それに、もう五年もお付き合いしてるから、そろそろ結婚を考えているの」

「え…ハァ!?け、け!?」

「こうでもしないと、兄さん、絶対許してくれないと思ったから」

「いやうん、まあ、こうされても今の所あんまり許す気は起きねぇんだが…」

何がなんだかさっぱりだ。状況を飲み込もうと扉に寄りかかって口元に手を当てる。もう一度ソラがこの男と結婚するだと。今この世界で人体実験やら改造人間やらなんちゃら兵器など、大きな力を持つことは即ちそのまま政府に喧嘩を売ることとみなされる。だから流石にこの男でも滅多なことは考えないだろう。その点ではヴィンスモーク・ジャッジへの信用ではなく、今の世界の構造へ信頼を置いているから、その辺りに懸念はない。問題は別にある。

そろり、と顔を上げると、ヴィンスモーク・ジャッジの顔が強ばっているのが見えた。何だよお前、緊張してんのか。いっちょ前に、彼女の肉親に挨拶するだけで、そんなタマかお前は。彼にどことなく人間味を感じてしまい、おれも大概優しいな、と頬を掻いた。

ソラは昔からとても良い子ではあったのだが、一度決めたことは頑としてやり通す芯の強い子だった。それは、彼女が非業の最後を迎えた前の世でも同じこと。言っても、無駄か。はぁ、と深く溜め息を吐いてくしゃ、と前髪を崩す。そんなこと、おれもよく分かっている。そしてソラも自覚はあるだろうし、何よりこの男、ヴィンスモーク・ジャッジだってそれを痛いほどよく分かっているはずだ。少し押し黙って、眉間に力を入れる。

おれはソラに幸せになってもらいたい。その願いを受けたソラは、幸せになるためにこの男を選んだのだ。

「…おい、ヴィンスモーク・ジャッジ」

徐にその男の名前を呼ぶ。合っている筈だ。転生者はなんの因果か前世と同じ名前になることが多い。間違っていようとも構わない。おれから見れば目の前の男はまだ妹をみすみす死なせた憎い相手だ。そいつの目線がおれのものとかち合う。もう一度その襟でも引っ掴んでやろうかと思ったが、それは止めてドアに寄りかかったまま腕を組んで、視線で殺すつもりでその顔を睨み付けた。

「もし、万が一、妹を、不幸に、するような事が、あったら…分かってるな」

細かく、一つずつ念を押すように言う。じ、と真っ直ぐにその鋭い目の奥を見据えれば、奴は意外そうに僅かばかり目を見開いて、瞬きをする。深く息を吸ったあと、おれの言葉に応えるように低い声で言った。

「分かっている」

きゅ、とその唇が引き結ばれる。それから神妙な面持ちのまま、ヴィンスモーク・ジャッジは僅かに頭を下げた。

「分かっている、義兄上」

おれは、この男の事を大してよく知らない。前世ではソラを嫁に出すにあたってあちら側の人間と話し合ったのは両親であるし、義理の弟になったからと言って無駄に仲良くする筋合いもなかった。それにジェルマのあの船のような国とおれの住処は物理的な距離もあった。交流など、結婚式と葬式くらいだった。

ふ、と体から力を抜く。おれの小さな笑い声に少しだけ頭を上げたヴィンスモーク・ジャッジの厚い胸に、とん、と軽く拳を当てた。

ほんとうに、この男に妹を任せていいのだろうか。それは分からない。過去を踏まえて考えると不安どころか、今すぐにつまみ出したいところだ。だが、妹がこいつをおれの前に連れてきたこと、そして、目の前で頭を下げるヴィンスモーク・ジャッジを微笑ましげに見ている、そのソラの笑顔を、信じてみても良いのでは、とも思うのだ。もし万が一また妹になにかあるようであれば、おれはその時に初めて手を差し伸べればいい。それ以外は、外野は黙って見守っていればいいのだ。

「さっきから義兄上義兄上と馴れ馴れしいんだよ…義兄上様だろーが!」

ふん、と鼻を鳴らして言うと、横のソラから笑い声が上がる。呆気に取られたような表情の男とそちらに目を向けると、妹が肩を震わせて満面の笑みを浮かべながら、人差し指で一つだけ涙を拭った。

「ふふ、仲良しね!」

よかった、と笑うソラに、思わずおれもヴィンスモーク・ジャッジも言葉を失う。ちら、と一瞬だけそいつと顔を見合わせて、おれはふい、と踵を返した。

ぐい、とドアを押し開けて、ソラとその男を玄関に誘う。ソラに笑い掛けられたヴィンスモーク・ジャッジの表情が少しだけ和らいだのを見て、おれは片眉がひくりと動くのを感じた。全く、してやられたものだ。儀式として一発ぶん殴ってやろうかと思っていたが、なんだかそんな気も起きなくなってしまった。

「…とりあえず、二人とも上がれ…ケーキがある」

なんだか酷く疲れたような気がする。けれど嫌な疲労ではなく、何となく心が満たされてしまっているのだから仕方がない。まあ、と嬉しそうに声を上げたソラと、意外そうに目を丸くしたジャッジ。おれはぽい、とスリッパを二足床に放る。

おれの大切な妹を、一度ならず二度までも貰っていこうとするなんて、なんて厚かましい男だ。絶対に幸せにしないと、今度こそ許さないからな。その言葉は口に出さず、おれは前を向いたまま目を伏せて笑った。どんなケーキかしら、そう言ったソラの弾んだ声を聞く限り、心配はなさそうだけれど。







何度でも祝福の言葉を


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