∴サナトリウムでおやすみ
「ちょっと遠回りして帰ろう」
とんとん、と、カバンに入れる教科書の足を揃えながら窓の外に視線をやるナマエ。委員会活動の居残りで、いつもより学校の拘束時間が長く、もう日は傾きかけている。何気ない彼の提案に、ルフィははて、と首を傾げた。いつものナマエのお決まりの寄り道の文句とは少し言い回しが違う。海が見たい、ではないんだな、と不思議に思いながら、ルフィはいいぞと二つ返事で了承した。
とはいえ、今日の寄り道もいつもの通りの海だった。コンクリートの堤防の脇をなぞるように歩きながら、ナマエとルフィは他愛もない話を消費する。やれ担任は早弁を見咎めるのが早いだの、今日の体育の授業は気合が入っただの、今日あった出来事のおさらいである。そんな話を投げ合いながら、ふと堤防の上に登れる階段を見付けたナマエが足を止めた。
「…ルフィは」
「おぉ、何だ?」
釣られてルフィも立ち止まる。その階段を見つめるナマエの頬の側面が、風に揺れた髪の隙間から覗いた。吸い寄せられるようにコンクリートの段に足を乗せたナマエは、ゆっくりと堤防の上まで登って、縁石の上を歩いているかのようにそのまま歩き出した。海風に揉まれる声は、少し遠くなったルフィに配慮してか、先程より大きい。
「今、楽しいか」
「今?今って、今か?」
「ああ、今」
何とも主語の大きい問いだ。たまにこいつは難しいことを言うな。そう思いながら、ルフィは、自分の頭より高い位置のナマエの靴を一瞥して、ふと表情を綻ばせた。
「おう!楽しい!」
当然のことだ。ルフィはそうはっきりと答え、また一歩自宅に向けて足を踏み出す。ざざん、と堤防の向こうから波の音が絶えず押し寄せている。
「…そうか」
その間を縫うように、消え入りそうな声が転がった。え。その声色の寂しさに小さく声を零したルフィが、歩みを止めてナマエの方を向く。血のように赤く染まった空。海に向かっていく落陽を背に、ナマエがルフィに身体の正面を向けて立っていた。
「……ナマエ」
「それならいい、いや、何も良くない、じゃあどうしておれは、おれだけが、こんな……おれが、何をしたって言うんだよ…」
強烈な逆行で、ナマエの顔に影が落ちている。真っ赤な空を真っ黒にくり抜いたような様相に、ルフィは言葉を失った。そう言えば、教室からここまで、自分はナマエの表情を見ただろうか、と。その考えに思い至りぞく、と背筋に冷たいものが走る。嫌な予感がする。絞り出すようなナマエの声が、魂の底から震える断末魔のようにも聞こえるからだ。ゆっくりとした動作でもって、そっと両手で顔を覆ったナマエに、ルフィは思わず声を荒げた。
「おい!ナマエ!どうしたんだよ!」
「…ルフィ、おれにとってはさ、この世界は…」
そこまでで言葉を止めて、ナマエはすう、と胸を反らして空気を吸い込む。僅かに空を仰いだその顔が、どうしてか笑っているのだけはルフィにも分かったのだった。
「ごめんな」
ぽつり。波に飲み込まれてしまいそうな小さな謝罪。それから踊るようにそのまま、ナマエの足が後ろ向きに地面を蹴った。ばつり、スピーカーの電源が切れたように、ルフィの脳内で波の音が切れて、全てがスローモーションになったかのようにゆっくりと動く。
「…っ、ナマエ」
ああ、そうか、これはナマエの遺言だ。そう肌で感じたルフィは、宙を舞う彼の身体目掛けて両手を伸ばす。けれどナマエの両手は、風を受けて飛び立つ飛行機かのように身体の両側に広げられていて、立ち塞がる堤防が邪魔で、どう足掻いてもルフィに落下を阻止できる距離ではない。
「ナマエ」
そして、重力に従ってナマエの足が堤防を離れる。空が、海が、ナマエを引っ張るようにその身体が落下していく。ルフィはそこで、自分の腕が二倍も三倍も伸びて、ナマエの身体にぐるりと巻き付く幻覚を見た。もちろん、そんなもの、ただの幻覚にすぎない。ナマエは、飲み込まれるように堤防の向こうに消えた。
「ナマエ…!」
程なくして、どさ、というような、ぐしゃ、と言うような音が堤防を越えた。引き潮の日、露出した地面は堤防と同じように均等に均されて、硬いコンクリートで塗り固められている。誰よりも海を見て、誰よりも海に足を運んでいたナマエが、それを知らなかったはずが無い。ないのだ。震える両手で空を掴んだルフィは、引き攣ったような喉を絞るようにして、ナマエに問いかけた。
「…お前にとって、この世界は、何なんだよ…っ!」
「うーん…わからないな…」
うーん。どこか他人事のように頭を捻るナマエ。その傷ついた身体が投げ出されているベッドサイドの椅子に腰掛けたルフィは、ずっとナマエの横たわった腹あたりを睨み付けていた。
重症ではあったが、幸い命に関わる怪我ではなかったようだ。ナマエは適切な処置のあと丸一日眠り続けて、次の日呆気なく目を覚ました。学校が終わった後、帰路についたその足で病院に寄ったルフィは、「よ!」と苦笑するナマエの顔を見て安心して泣いた。
曰く、堤防から飛び降りたときの記憶が曖昧、とのこと。ルフィと話した内容もぼんやりとしか覚えていないそうだ。仰々しく包帯の巻かれた頭には、やはりそれ相応の傷はある。しかし他の箇所にはコンクリートによる擦過傷程度しか怪我はなく、不幸中の幸いとしか言いようがなかった。
「特に悩みとかもなかったはずなんだけど…てか、今考えても、飛び降りたくなるようなことなんて思い当たらないんだよな…俺、なんで飛び降りたりしたんだろ」
何処か憑き物が落ちたかのようにスッキリした顔のナマエに、あの時の異様な面影はない。まるで、あの堤防の下に置いてきたかのように。一瞬、ルフィは本人にその事を尋ねたほうが良いかと口を開きかけたが、けろりとしているナマエの姿を見て踏み止まった。
忘れてしまったのなら、きっとそれで良かったのだ。常日ごろ海を見て涙するナマエ、あの日、小さく謝りながら堤防の下に身を投げた彼の声色を思い出す。苦しかったのだろう。ずっと一人で抱え込んで、誰にも理解されない。そんな悩みをナマエは抱えていたのだろう。開放されたのなら、もうナマエをそこに縛り付ける理由にはならない。ふ、と淡く微笑んで、ルフィは頭に乗っている麦わら帽子を目深に被り直した。
「なんだ、ずっこけただけだったのか、だっせーな〜お前」
「うっせーな」
少し恥ずかしそうに顔を逸したナマエ。ルフィは、勿論本気でナマエの身投げをただの転倒だとした訳ではない。もし万が一、ナマエが頭を打ったことで意識が混濁して、混乱による記憶喪失が起きたのなら、それをわざわざ指摘するようなことはしない。きっとナマエが自分で捨てたのだろうから。
落ちたときに擦りむいたのか、ナマエは手の甲の擦り傷を眺めていた。ざざん、病室の窓から覗く浜辺に、波が押し寄せる。その音を聞きながら、ルフィは麦わら帽子の下でそっと目を伏せた。と、ルフィの腹の虫が、ぐう、と空腹を主張する。どんな時計よりも的確な腹時計だ。
「…お、飯の時間だ」
がた、と引いた椅子が鳴る。自分の手の甲から視線を上げたナマエは、ルフィの顔を見上げて、に、と口の端を上げた。
「晩飯何?」
「肉!」
「いつも通りかよ、いいな…病院食、薄味でさ」
「じゃあ早く退院しろよ」
「無茶言うな」
はは、と声を上げて笑ったナマエは、いつもと同じ笑顔なのに、何処か幼い笑い方をした。その笑顔を見てルフィは、ああ、と思う。
愛せなかったのだ、ナマエは。今のナマエを、この平和な世界を、そして、水槽に水を張ったような物言わぬ海を。ルフィは、ふう、と胸に詰まった空気を逃がす。けれどその理由がナマエの中から姿を消した今、もうそんな心配はない。
「ナマエ、退院したら…海、見に行こう」
ぽつり、低い声でルフィが言う。その言葉に目を丸くしたナマエは、首を傾げて微笑した。
「いいけど…珍しいな、お前から誘うなんて」
ナマエは、二つ返事、という言葉が相応しいほどに悩む様子を見せなかった。海が嫌いになった訳ではないだろう。だが、前のように海を見て涙する理由は、ナマエにはもう無いのだ。きっと砂と同じように海にも笑顔をみせる事ができるようになったのだろう。そうして彼はいつか、変わった自分に気が付くのだろうか。否、気が付かないといい。ルフィは小さくそう願って、麦わら帽子の鍔の下からナマエのすっきりとした表情を見据えた。
「…おれも、海は好きだからな」
に、と太陽のように笑ったルフィに、ナマエは眉を上げて肩を竦めた。それでいい、ナマエが自分を愛せるようになったのなら、それ以上に喜ばしい事はない。重荷になるならこんな風に手放してしまえばよかったのだ。狂おしく愛おしいと同時に、戻れない世界に焦がれる熱病に浮かされ続ける必要など、ない。
ルフィにとって、かつての冒険は自分ひとりの中に収納された愛おしい思い出だった。だがナマエにとってはそうではなかったのだ。病気のような、呪いのような、そんな姿をとっていたのだろう。がらがら、と後ろ手に病室の扉を閉めたルフィは、その扉に静かに背中を預けて、ゆっくりとした動作でもって、そっと両手で顔を覆った。
今なら分かる気がする。きっと、ナマエにとってのこの世界、とは。
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