サナトリウムでおやすみ


∴水銀を泳ぐさかな

はて、この感情の名前は一体何だったろうか。ふとそう思ったのは、寝起きで殆ど目を閉じたまま入ったリビングから、キッチンに立つ恋人と目が合った、その時だった。

「おはようございます、ロー」

ふわり、と彼が両手で持った味噌汁から湯気が立ち上る。パンが得意ではない俺のための、ご飯のお供だ。そっと俺の席に敷かれたランチョンマットの上に椀を置く。これで丁度朝食が全部揃ったようだ。焼き魚に白米、味噌汁に昨晩の残りの煮物。それに緑茶。

「…あぁ」

おはよう、に最小限の言葉で返す。恋人、ナマエは気にした様子もなく微笑んだ。俺の朝の挨拶がおざなりなのは決してそうしたくてしている訳ではなく、ただ単に朝が弱くまだ覚醒し切っていないからだ。とりあえず話しかけられた事だけは理解して、無視するのも悪いかとただ返事を返すだけ。ナマエもそれを分かっている。

「ちゃんと顔は洗ってきたようですね」

ふふ、と男が愉快そうに笑う。ご丁寧にエプロンまでしていやがるナマエは、朝に滅法強い。寝る時間は同じなのに何故こんなにも違うのか。そんなの、寝る直前の疲労感が違うから、と昨晩の出来事に思いを馳せて、ふるふると首を振って邪な考えをそれを追い出した。

「…うるせェからな、誰かが」

「うるさくても良いですよ」

不服を隠さずに言った俺に、ナマエがふふん、と得意げに笑う。この男は、早寝早起き一日三食を習慣付けさせて俺を健康体にしたい、らしい。夜更しさせている張本人が何を言うのか。低血圧は気合で治るものでは無い。最後の仕上げに自分の席にも味噌汁を置いたナマエが椅子を引いたのを見て、俺も自分の席についた。

「いただきます、はい、君も」

「…イタダキマス」

「よくできました」

子供扱いするんじゃねェ。そう言おうと正面の男を睨み上げたら毒気を抜かれる程の間抜け面だったので、代わりに茶を啜っておいた。温い。

ナマエとの出会いは二年前。ノースブルーもそれなりに暑くなる、七月だった。医大に進学するために生まれ育った故郷を初めて出て、遠い親戚を頼りに移り住んだ島。ナマエはそこでカフェを営んでいた。店の前を通りかかった俺の目の前で、ナマエが水の入ったジョウロを落として、俺と自分の足元に水をぶちまけたのが始まりだ。

「ご、ごごごごごめんなさい!申し訳ない!服が!靴!」

ぎゃあぎゃあ、と大声で叫びながら腰に巻いたカフェエプロンを取り払って、それでゴシゴシと俺のズボンとスニーカーを拭いた奇想天外な男。それがナマエだった。「お急ぎじゃなかったら入ってください、お詫びもしたいですし」そう罰が悪そうに笑ったナマエは、そっと俺の手首に人差し指と中指を添えた。そのまま誘導されるように、俺は目の前のレトロな喫茶店に足を踏み入れたのだった。

「どうぞ、コーヒーと、お嫌いでなければケーキも!」

「いや、俺は」

平日なだけあって、客は疎らだ。ちら、と店内を見渡したところで男にケーキの前に促される。甘いものはあまり、そう言おうとしたところで「あ!」と言葉を遮られる。何だというんだ。男の顔を見れば、静止するように両手を突き出していた男がへにゃ、と頼りなさげに破顔した。

「もちろんお代は受け取りません、お詫びなので」

ふわふわ、と花でも咲いたような間抜け面だ。否、どうやら頭の中に花畑でもあるらしい。頭痛がしてきそうな気配を感じながら、俺はそっと額に手を当ててはぁ、と一つ溜め息をついた。それからレジカウンターの横に並んでいるケーキのショーケースに視線を向ける。比較的安価で、シンプルなチーズケーキが目に入った。

「…そうじゃねェんだが…それなら、これ」

レアチーズケーキ。指差せば、店員、ナマエは少し驚いてから、ぱあっと満面の笑みを見せた。

「分かりました!ありがとうございます!」

その男の笑顔が煩くて、店内の雰囲気も寂しくて、ケーキの味は悪くなかった。それから俺は授業に空きがあるときにその店の前を通ったし、ナマエは俺が店の前を通る度に声を掛けた。ああ、こんな風にして人は恋をするのか。柄にもなく、何度めかのティータイムの時に正面で嬉しそうにココアを啜る男を見て、俺はぼんやりそう思ったものだった。

「えっ!?男と付き合ってる!?」

「あァ」

俺が居候している先の家主、遠い親戚のコラさんにそれを打ち明けたとき、コラさんは嬉しいんだか、悲しいんだか、怒ってるんだか何なんだか、よく分からない表情でそれを聞いていた。何故だかこれまで人を好きになったことがなかった俺の成長を喜んでいる様子は見て取れるのだが、どうしても相手が男だというところで諸手を上げて、というわけには行かないらしい。

「…ロー、そいつはどういう男なんだ!」

「…間抜けで、お人好し?」

「頼りがいがない!やめたほうがいいんじゃないか!?」

ご両親に会わせる顔がねぇ、そう頭を抱えるコラさんもドジなんだから人のことは言えない気がする。まあ、確かに頼りがいや甲斐性という面は、確実にナマエに期待できる事柄ではないだろう。それでも、と俺は腕を組んでコラさんの前に立った。

「けど…料理がうまいし…優しくて、俺のことを一番に考える男だよ」

じ、と少しコラさんを睨みつけるように言う。うーん、と少し悩んだ様子を見せてから、コラさんはしかめっ面を崩して俺の帽子をぐりぐりと撫で回した。

「…まあ、お前がそう言うなら大丈夫か!」

「やめろ」

そんなこんなで保護者の許可も得て、俺はそこそこの頻度でナマエの家に入り浸っている。両親を無くして喫茶店を継いだらしいナマエは、驚くことに俺と大して歳が変わらなかった。犯罪にもならないだろう。

目の前で、いただきます、と手を合わせた男を見る。見た目だけで言えば俺より下と言っても不思議ではない。見ていることに気が付かれてナマエと視線がぶつかり、ふ、と微笑まれる。その顔を見て、ふと、阿呆なことが頭を過ぎった。

「…運命、だったのかもな」

カン。目の前で、皿と茶碗がぶつかる音がした。心底意外そうな顔をしたナマエがその表情のまま言う。

「驚いた、君がそんなことを言うなんて」

まじまじと顔を眺められる。自分でも馬鹿馬鹿しいと思うのだが、そう思ってしまったのだから仕方がないだろう。どことなく居心地の悪さを感じて視線を下げ、魚をほぐしながら皮を剥く。

「運命じゃなかったら、わざとだろ」

ぽつり。照れ隠しにそう呟いた。温かい魚からはつるりと皮が剥がれて、脂の乗った身を少し口に運んで追いかけるように白米を口に含んだ。塩加減も丁度いい。ごくり、と飲み込んで、それから茶を一口呑み下す。ナマエから返事はない。少しムッとして、今度は味噌汁の茶碗に手を伸ばしながら声を掛けた。

「…おい」

とん、とテーブルに優しく湯呑みが置かれる。いやに静かになったナマエの顔をそっと見遣れば、表面に書いただけのような希薄な笑顔を浮かべていた。

「…わざとなんかじゃ、ありませんよ」

何故俺は、この凪いだ海のような平穏な日常に、違和感を抱いてしまうのだろうか。俺は今日もこの男に与えられる、無償の愛を享受する。ナマエから向けられる眼差しの意味は、愛以外にありえないはず、なのだが。きらきらと光を反射する美しい愛の海の、その正体は。

「…でも、おれは、毎日、君のことばかり考えていましたよ、ロー、ずっと、ずうっとね」

ぽつり、と溢れた声からは、俺に推し量れない感情が垣間見える。その表情から目を離すことができなくて、俺は視線を逸らさずに眉間に皺を寄せた。なあ、その仄暗い笑顔の理由は、何なんだ、ナマエ。お前は一体。






水銀を泳ぐさかな




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