不可能なんかじゃない


  ひとくちの果実


その日、なんの前触れもなくそれは起きた。

シャチは、不健康な隈に縁取られたローの目が見開かれたのを見てその視線の先を追い、思わず口をあんぐりと開けた。今も半分程度席の埋まった食堂は珍しく水を打ったように沈黙が支配しており、静まり返った空間にゴウンゴウンと潜水艦の起動音だけが木霊していた。そうしてその異様な空気に、そこにいるすべての人間の視線をもれなく集める存在が、こてん、と可愛らしい擬音が付きそうな動きで首を傾げた。

「…う?」

「か、かわいいいい!!!」

計ったように食堂はそんな悲鳴のような声で飽和する。その渦中の存在、ぶかぶかの白いつなぎに包まれたような状態になった五歳程度の子供が、ずり落ちたニット帽に半分ほど隠れたどんぐりおめめを更に丸くしてきょろり、と視線を彷徨わせる。そうして見知らぬ大人しかこの場にいないうえに視線をその一身に集めてしまっていると気付いたらしい子供の顔が微妙に歪んで、シャチは瞬間的にその次に起きる事象の予想がついた。

「…ぅえ…」

「あ、まず…」

いけない、とその子供に向けて一歩踏み出した、のがいけなかったのかもしれない。

「っ!?ふえええ…」

「えっ!?おれ!?おれがいけないの!?わ、わわ悪いイッカク!」

途端に肩をびくりと震わせて糸が切れたように泣き出した子供に、シャチは思わず後退りながら謝罪した。

そう。今さらりとシャチがその子供の名前をイッカクと呼んだが、それは間違いではない。先程コックから「前の島の珍しいフルーツらしいですよ、甘くて美味いって聞いたんですけど一個しかないんで船長どうぞ」という自然な流れでローに渡った緑色のフルーツがあった。それを横から見ていた船長の恋人が「なにそれ、緑じゃないですか熟してないんじゃないですか」なんという口を出しながらローの手からパクリと一口奪い取ったのだ。ローがそれに赤面する前に、コックが人の食べ物を取るなと諌める前に、ペンギンがいちゃつくなら部屋でやれと説教を始める前に、それは起きた。

「っふ、ふえ、ふえええん…っ!」

その瞬間、ローの手の緑の果物をつまみ食いした男の姿が掻き消え、今こうして床に座り込んだまま泣き喚く子供が入れ替わるように現れたのである。

「…おい、クジラ…お前その珍しいフルーツ、絶対それ、絶対それだろ」

「…あぁ、イッカクには申し訳ねぇけど絶対それだと思う」

すべての元凶と言っても過言ではないコックのクジラと、彼の近くにいたシャチの会話が子供の泣き声をBGMにして繰り広げられる。どこか遠い目をした二人は、その泣き続けるイッカクの背後に立つ呆然としたまま動かないローをそっと窺い見た。

「……」

イッカクの恋人であり、今まさにそのフルーツを口に入れようとしていたローは、いつもより少し目を見開いて縮んだイッカクの後頭部を眺めていた。否、眺めているというよりは目を離すことができずにただただ見下ろしている、といった風だ。確かにぽんっ、という間抜けな破裂音を立てて突如人間が縮んだのだから仕方がない。ましてやそれは彼の恋人であるし、それも自分の代わりに食したものでこのような状態になってしまったのだ、余計だろう。我にこそ返っていないが、ローはその小さな子供を凝視したまま、ぽつりと呟くように恋人を呼んだ。

「…イッカク…?」

「っ、ひっ…!?」

背後から突然声をかけられた子供の肩が跳ねる。その目から大粒の涙がもう一つ零れたのを見て、シャチは自分の心が痛むのを感じた。

自分達を見て泣くということは、十中八九このイッカクは体だけでなく心まで子供に戻ってしまったということだろう。そんな子供が突然見知らぬ場所に放り出されて見たことのない大人に取り囲まれて、恐ろしくないはずがない。放心したままのローも気遣いながら、シャチはそっとイッカクの前にしゃがみ込んだ。背後にローがいるのに気がついた子供は、後ずさる事はしなかった。

「…あーもう、ほらほら、怖くないから泣かないでくれ〜…」

「…ひっ…え、ご、ごめ…なさ…」

「ん?いやいや謝ることはねぇよ」

「…?」

理解できない、という風に視線を泳がせたイッカク。喉を引きつらせて泣くのを我慢し始めた様子からどんなに物腰柔らかく接しても、その緊張は解かれなそうだと結論づける。シャチは子供を安心させようとにっこりと笑った。

「お前は悪くないのにどうして謝るんだ?」

「…?ぼくがぜんぶ、わるいんです…」

「ん…?」

「ゆるして、ください…」

「え、ちょ…」

繰り返される意味のない謝罪にさすがにシャチも違和感を感じてその子供の顔を覗き込めば、どこにでもいる色のその目に光が宿っていないことに気がついた。うわ言のような子供に見合わない丁寧な口調での謝罪は、シャチだけでなくその場にいたコックにも、ペンギンにも、そうしてローにもただならぬ事態を伝えた。

「…おい、お前…名前は?」

「…え、キャプテン、こいつは…」

やっと正気に戻ったローがしゃがんでイッカク目線を合わせて、そう尋ねた。シャチは「何言ってるんですか、こいつはイッカクですよ」と続けようとしてやめた。ゆったりとローの方を振り返った拍子に子供の頭からぶかぶかのニット帽が落ちて、彼の恋人の面影のある落ち着いた髪の色とパッチリとした目が姿を現した。やはりその目には子供特有の無邪気さなんかも窺う事はできない。

「…?しらない…」

ぽつり、途方にくれたようにそう言って、子供は眉を下げた。ローが少し押し黙って、そうか、と静かに言うと、まだ遊びたい盛りだろう子供には相応しくない小さな声の謝罪がごめんなさい、と繰り返された。

「…え、どういうことです?イッカクじゃないんですか、この子供」

子供の後ろ側になってしまった位置でシャチが首をかしげる。側で黙って様子を見ていたペンギンが表情を歪ませてコックに果物を買った市場に連絡するように言った。ローがゆっくりと子供の頭に触れようと手を伸ばすと、子供がまたびくりと肩を震わせた。ぎゅっと目を瞑って身を硬くした子供に、ローは目を細める。

「お前達は、イッカクから過去の話を聞いたことがあるか?」

「えっ…?いや…どうだっけ…?」

「どこの島に行ったことがあるか、みたいな話はありましたけど主観的な話はあまり」

「そうだろうな」

一瞬尻込みした手を、そっとその柔らかい髪に埋めてくしゃ、と掻き回した。恐々と片目を開けた子供を、抵抗する間もなくひょい、と軽く抱き上げて、ローは立ち上がって言った。

「つまりそういう事だ」

こいつは、おれが預かる。

そうしてつかつかとその場を後にしたローの背を、シャチが新しい生き物でも見たような目で見送った。そうしてその姿が完全に食堂から消えれば、今のはどういう意味だとペンギンに追求が来る。先程のイッカクの反応、言葉、名前を知らないと言った事、それを踏まえて考えれば、答えはおそらく一つだろう。

「…誰にでも、話したくない過去の一つや二つあるだろ」

そうして、彼にとってはあの歳の頃の事が、それなのだろう。

厄介な事になったものだ。ふうん?とまだ首を傾げているシャチを一瞥して、ペンギンは仲間のこれからを案じた。




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