不可能なんかじゃない
甲板で釣りをしていた船番のペンギンが、背後の足音に気が付いて振り返った。そして麗らかな日差しの中に黄色と黒の危険色のパーカーを着た男が背中を向けて佇んでいるのを見て、あぁ、似合わないな、と本人が聞いたら生きたまま全身を四散させられそうな感想を抱く。
ここは、グランドラインのとある春島。前回降り立った島から二週間と少し航海した、二度連続の春島だ。一つ前に降り立った春島は花がメインの特産物だったが、この島は科学を根底に作り上げられた農作物の島らしい。初見は畑が沢山あって田舎っぽい印象を受けるが、実際は安全な遺伝子組み換えや交配が盛んな島で見たことも無い野菜や味の良い農産物も多い。既に島のすべてを下見して回ったイッカクがそう言っていた。
「出掛けるんですか?」
ペンギンがそう声をかければ、停泊した潜水艦の甲板で船長が振り返った。あちらを向いていたということは、島の様子を眺めていたのだろう。陽光の似合わない男、ローは何か言いたげに口を開いて、それから一度だけ首を振った。
「……いや」
出掛けない。落ち着き払った声での答えはいつも通りのものだし、ローが出かけるなどとむしろ珍しいものだ。それでもペンギンは何となくその言葉を彼の本位ではないと察して、ついでに粗方原因の目星もつけた。
「イッカクなら、少し前に出かけて行きましたよ」
「誰がイッカクの話をした」
「違いました?」
「……」
違わなかったらしい。す、と罰が悪そうに目を逸らしたローにペンギンが苦笑した。渦中のイッカクはというと、おそらくまた新しく着いた島に降りてその島の魅力や何たらをローに語って連れだそうとするのだろう。
面倒な奴らだ、とペンギンは思う。いつからともなく彼らの気持ちを察していたものからすればじれったいことこの上なかったのだが、なるようになったらしい。デートに誘いたくて島に着く度に忠実にプレゼントを買ってくるイッカクに、誘われたくて部屋で待っていたローも。傍から見たペンギンからすれば面倒極まりないのである。さっさとくっつけと何回思ったかは分からないが、それが色濃くなったのはやはり前の島でイッカクが花吐き病に感染したからだろう。
ローは、まだ甲板から港を眺めている。
「…そんなに気になるなら一緒に行けばよかったじゃないですか」
「…おれが、か?」
目を丸くしたローが、あり得ないというような表情でペンギンを見る。少し不満そうな表情には「断り続けたのに今更」という後ろ向きな思いと「一緒に出掛けたい」という気持ちとの葛藤が見え隠れしていた。そんな意地を張らなくと素直に言えば良いだろうに。
「大方今回も誘われたんでしょう、付き合ってるんだったらおとなしく付いて行けばよかったのに」
どうせ毎回のごとくかのクルーは我らが船長様をデートにお誘いしているのだろう。そんな確信のもとで、少しだけ皮肉も混ぜてそう尋ねれば、ローの顔が不快感を顕にする形で顰められた。首を傾げれば、忌々しそうにその口が開かれる。
「誘われてねぇよ」
「え?誘われてないんですか?」
「………チッ」
戻る。カツカツとヒール音を鳴らしながらそう吐き捨てたローは、船内に戻ろうと踵を返した。珍しいこともあるものだ。イッカクは一度下見をして帰ってきたら土産を買ってきてすぐにローを外に連れだそうとする。今回はそれが無かったと言うなら、なにか特別な理由があるのではないだろうか。と言うかローは誘われなかったら寧ろ自分の方からイッカクを探しに行くのか。そうペンギンが思案したとき、船が接岸されている方から空気の読めない声が聞こえた。
「あ、キャプテン!」
自分が呼ばれた訳ではないが反射的にそちらを向くと、脚のバネだけを使い足場をひとっ飛びに甲板に飛び乗ってきたイッカクがちょうどそこに着地するところだった。すた、と軽い音を立てて降り立つこの男にはその行動を許可してあるが、ウエイトのあるベポやジャンバールにはしっかり足場を使うように言ってある。船が傷ついては元も子もない話だからだ。ローとは違い蛍光色のスニーカーを履いているイッカクは、大した足音も立てずに歩いてくる。
「よ!ペンギン!これ土産!」
「おう、悪いな」
「いーってこと!」
ついでのようにペンギンに放られたのは色とりどりのクッキーだった。恐らくこの島の特色からするに野菜由来の原料を使用したものだろう。釣り竿を固定してクッキーを空中で捕まえた。に、と気持よく笑ってイッカクは今だ背を向けたままのローに軽い足取りで歩み寄った。気になるのは手に大事そうに抱えているものだが、そこには触れないでおこう。
「キャプテン、ただいまです」
「……行ってきますは聞いてねェけどな」
「そうですね、内緒で出掛けましたから」
「……んで…」
「え?」
「何でもねぇ」
「キャプテン」
「なんだ」
「キャプテン」
「だからなんだ」
「キャプテン」
「っ、だから」
なんだ。そのローの言葉は苛々した様子で振り向いた彼の目の前に広がった目の覚めるような色に遮られた。ペンギンに笑いかけた笑顔とは別のふわり、とした笑みに、帽子の鍔の下でペンギンが少しだけ目を見開いた。
「これを、見せたくて」
ローの不機嫌そうに寄せられていた眉間の皺が消えた。睨みつけるように引き絞られていた目も少しばかり見開かれていて、どことなく不意を疲れたような表情だった。ローとイッカクの間には、空よりも青く海よりも芳しいそれ。
「…イッカク…これ、は」
ローが恐る恐る手を差し出す。それは、花束だった。厚く瑞々しく、青い花弁、茎にあるはずの刺は危険が無いように削り落とされている。少し前に見飽きるほど見たその花だが、こうして咲いている様子は初めて見た。不可能と花言葉がついた、青い薔薇を。
「…この島が植物の品種改良とか交配に力を入れていることは、お話しましたよね?」
「……あぁ」
「青い薔薇は自然界にある色じゃないんで自生はしてないんですけど、この島にはその技術をアピールするために青薔薇の花畑があるんです…作るのがめちゃくちゃ難しいから不可能なんて花言葉になったらしいんですけど」
イッカクが説明している間、ローの手を取って青い薔薇の花束を持たせる。恐る恐る、と言った様子でそこに鼻を近づけたローが深く息を吸い込んで、蕾が綻ぶように少しだけ笑った。
「この島では一本だけ偶然青薔薇を咲かせることが出来たそうです、だからこの島では青薔薇の花言葉は不可能じゃない」
花の香りを楽しみながらローが視線だけでイッカクに続きを促す。仕方無さそうにふ、と笑ったイッカクは、花束からメッセージカードを抜き取った。
「読んでみてください」
「…ん」
ペンギンは、ローがそのメッセージカードに目を向けた瞬間に釣り竿の具合を確認しようと振り向いた。残念ながら魚はかかっていないようだ。だから、今の一瞬に二人が何をしたのか、なぜローの顔が赤いのか、なぜイッカクがそんなに幸せそうに笑っているのか、理由など分からない。ただ、その時の麗らかな日差しは、まるで二人のために注がれているようだった、と後に語った。
この島での青薔薇の花言葉は、『神の祝福』であるという。
back