狐女の誤算
「お嫌いなものは?」
「……パン」
珍しい好き嫌いだ、とカーレンは思った。パンは料理においては凡庸性が高いから良く好まれると思っていたが目の前の男は違うらしい。かつてパンに食われそうになったりパンで体調を崩したりしたことがあるのだろうか、と投げやりに考えた。というのも、カーレンが目星をつけていたレストランはすべて洋食だったからだ。
ここは島のメインストリートである。食事どころならこのあたりが一番多いからと言って短絡的思考でこのあたりに来たのだが、一つ重大な事を忘れていた。それは。
「お兄さん、ちょっと寄っていかない?」
トラファルガーが身目麗しいことである。医療の話ばかりしていると相手の顔より知識の方に感心する場面が多くなるのでトラファルガーの顔の造形など気にしていなかった。だからなのか、さっきからトラファルガーを誘い込もうと娼婦達が度々声をかけてくる。この場に彼を連れてきたのはカーレンだが思わずその様子に辟易して皮肉っぽく訪ねてしまった。
「おモテになるんですね」
「嬉しくねえな」
「まぁ」
この島の男たちに聞かせてやりたい。カーレンはきっとトラファルガーが海賊とはいえ、自分で決めた事をやっているから女はいらない、という意味で言ったのだろうと推察した。それはそうだ、トラファルガーは船長で船医らしい。そこにさらに恋人なんぞ足したらこの男は過労で倒れるのではないだろうか。いや、それはないだろうが女とイチャつくのを盛り込むなんて暇がないだろう。そうカーレンが自己完結すると、先程の言葉に付け足すようにトラファルガーが続けた。
「好きな奴に好かれねェと、意味がねェだろ」
「………一理ありますわ」
あ、好きな人いるんだ。対応が遅れたことを自覚しながら、カーレンはその横顔をちらっと視界に写した。真っ直ぐ前を向いて歩いているその顔は、どこか悲しげというか、苦しげに見える。
「そんなに、苦しい恋なのですか?」
「恋?おれが?」
はっ、と鼻で笑った男は、しかし自嘲気味だった。否定する様子も見せないから、あながちカーレンの観察眼は間違っていなかったらしい。それならなおさら、彼に話そうと思っている病は危ない、と彼女は密かに眉を寄せた。
「嘔吐中枢花被性疾患、別名、花吐き病です」
「……どういう、事だ?」
トラファルガーの鋭い目がカーレンを映す。話したいと言っていた病の話なのだろうとは察しが付いている様子だが、その別名に訝しんでいるらしい。無理もない。花を吐くなんていうことを表しているだけの病名、何が原因でどんな症状が起きてなんて想像もつかないだろう。しかもそれがわざわざカウンセラーのカーレンが話すことか、というのも分からないはずだ。
「嘔吐中枢花被性疾患というのは、感染者の心に反応して発症する病です、その引き金になるのは、恋愛感情」
「は?こ…い?」
「ええ、片思いを拗らせると相手を思う度に花弁を嘔吐するようになります、直接命に関わる病ではありませんがだんだんと吐き出す花弁の量が増えて、喉につかえて呼吸困難に陥ることもあります」
そこで、トラファルガーの肩越しに声をかけんとしている女と目が合った。もうこれ以上声を掛けられて会話を中断されるのは面倒だ、とカーレンは考えを巡らせ、トラファルガーの腕を引いた。
「失礼」
「っ、おい…」
「話を続けます、嘔吐中枢花被性疾患は、他の患者の嘔吐物に触れると感染します、感染者に思い人がいない場合は潜伏し続けますが、思い人がいる場合はすぐに発症します、その場合思いを遂げる以外に完治させる方法はありません」
「…ハァ…面倒な病気だな」
腕を引かれることに関しては納得したようなトラファルガーが、キャスケット帽子を抑えるように頭に手をやった。人混みが煩わしそうだから、もしかしたら大通りのような場所が苦手なのかもしれない。カーレンはゆったり周りを見渡して、それから馴染みの露店に男の腕を引っ張った。
「あそこのおにぎりにしましょう」
「…鮭で頼む」
もうカーレンに振り回されることに関しては諦めたトラファルガーが露店に注文を通す。カーレンも同じものを注文して店先でトラファルガーの腕を解放した。それからポケットからメモとペンを取り出して、その白い紙に文字の羅列を書き殴り始める。
「私から言わせれば、貴方はきっと嘔吐中枢花被性疾患に感染すれば、瞬間的に発症します」
「知ったような口を」
ふん、と店主がおにぎりを袋に詰める様を見て、トラファルガーは言う。しかし明確に否定しないところがなんとも言えない。カーレンは少し心配になりながらトラファルガーが店主から受け取ったおにぎりの袋にメモを差し込んだ。
「この通りの西の角にある書店は、医学書の品揃えがいいの、他にもいくつか参考文献はあるでしょうけれど、私はこの本が一番参考になると思います」
伝染病全集、カーレンの字でそう書かれたメモを、トラファルガーは袋の口を少し開けて覗き込んだ。それからカーレンを伺うように見てからすまない、と呟く。
「調べてみることにする、迷惑を掛けたな」
「いいえ、私はあの狸爺からせしめた夕食代の残りで新しい服でも買うのでお気になさらず」
カーレンがそう言うとトラファルガーは一瞬ゆったりと瞬きをしてから、ふ、と笑みをこぼした。カーレンはその笑みを見て、なるほどイケメンだな、と彼の職業が海賊であることにもったいなさを覚えた。
「食えねェ女だ」
「よく言われます」
狸爺の娘は女狐か、と帽子の鍔を引き下げたトラファルガーは、船に戻ると言って帰っていった。どうやらだれかに恋をしているらしいトラファルガーに、カーレンは密かにエールを送ったのだった。その背中が花吐き病に蝕まれないといい。彼が自分の医院に患者として来ないように祈ったカーレンは、トラファルガーが間接的に花吐き病に追い詰められるようになることを、まだ知らなかった。
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