運命に唾を吐け!
悲劇的な幸福

おれは未来を知っているのに、目先の餌につられて回避出来る悲劇に手を伸ばした愚かな男だ。他人の人生を生きるという事はかくも厳しくままならないものなのかと恐ろしく思ったものだ。しかし自分がドンキホーテ・ドフラミンゴであるということを自覚してその人生というシナリオから逃れられないと言う事も悟った時にこれから起こるだろう諸々のことを覚悟していたつもりだった。

余裕ぶったおれの大きな手が捲る書類は海軍に潜入しているヴェルゴから送られてきたものだ。一応私信という扱いになっているし内容も主張先からの他愛もない現状報告を装っている。長期旅行に行っているという体で送られてくる手紙は、真面目な彼ら如く硬質な文字が並んでいた。これは南の島で寛いでいる奴の字ではないだろうと思わず苦笑する。

隠語の多い手紙の解読で少なからず疲労を感じて、サングラスを取ってから手元にあった本を広げて顔の上に被せる。原作のドフラミンゴもやっていた寝方だ。一見休みにくいようにも見えるその体勢だが、体がその男のものだからか、意外と落ち着く。その体勢になって一眠りしようと目を閉じた瞬間、三回のノックの後に扉の向こうから鈴の鳴るような声が呼び掛けてきた。否、鈴は鈴でも地面に落としたようなけたたましい音だった。

「ドフィ!わたし!」

返事も待たず中に入ってきたベビー5が珍しくおれの名前を呼んだ。拾ってきた当初はドフィドフィと親しげに話し掛けてくれたのに、どうやらファミリーに連れ帰ってからおれがファミリーに祭り上げられている存在だと知ったらしく、焦った様子で周りに習い若様と呼ぶようになった。その少女がまだ原作の過去編に満たない肩までの短い髪を靡かせて勢いよく転がり込んできたのである。少しだけ顔の上の本をずらして起きていることをアピールしつつそちらに目を向けた。

「…珍しいな、どうした?」

一瞬俺が寝ているところに転がり込んだと思って固まったベビー5がほ、と肩の力を抜いて思い出したように大声を出す。若様の、から始まったあたり少しは我に返ったらしい。

「若様の弟って言う人が…」

思わずその言葉にガタリ、と音を立ててほとんど反射的に椅子から立ち上がる。弟、と言ったか。ドンキホーテ・ドフラミンゴの、ここで言うおれの。つまり、それは。

「…ロシー?」

「ドンキホーテ・ロシナンテって…」

うわ言のように呟けば、ベビー5が神妙な面持ちで頷いた。喉が震えた。これはチャンスではないのだろうか。

今ここで一言「追い返せ」と言えば、ドンキホーテ・ロシナンナという海軍からのスパイの侵入を防ぐことができる。すると、ロシナンテが要因で起こるすべての事件を防ぐことができる。とどのつまり、おれがロシナンテを撃ち殺す、何ていう最悪な未来も。

「…若様、大丈夫?」

「……あぁ」

どう考えてもロシナンテはファミリーに入れてはならない。悲しみと憎しみ、怒りに満ちた負の連鎖の始まりでしかない。駄目だ。そう思うのに、口が動かない。どんな力で強制されているわけでもないのに。

どうすれば。

「…どんな奴だった?」

会う、会わない、どちらでもない返事をすればベビー5はえ、と目を丸くしてから答えた。おれはというと何故かがんがんと痛んできた頭に思わず片手をこめかみに当てる。うーん、と指を顎に当てて思い出すような仕草をした彼女が一つ頷いて答えた。

「若様と同じふわふわした金髪で、若様と同じくらい大きくて、赤い色の目をしているわ」

それを聞いて、膝から力が抜ける。かくん、と膝が折れ曲って重力に従ってその場に座り込んだ。机に掴まったせいでがたん、と大きな音がしてヴェルゴの手紙が床に落ちる。若様、とベビー5が駆け寄って来た。

ロシナンテだ、間違いない。おれの知っているロシナンテだ。一緒に少年時代を過ごした弟だ。そうして、悲しいくらいONE PIECE原作に出てくる、ドンキホーテ・ロシナンテだ。

「…ベビー5」

「若様、大丈夫…?」

「…立てねぇ…」

「分かったわ!」

立てないし体調が優れないから帰ってもらってくれ。そう言おうと思ったら聡明で気が利く少女は「立てないからここまでロシナンテを通してくれ」という意味にとったらしく、パタパタと部屋を駈け出して行ってしまった。あっけにとられてその背中を見送ってしまう。どうやらベビー5の役に立ちたがりを侮っていたようだ。

ふと、自分の手元を見る。床に落ちたヴェルゴの手紙がそこにあって、思わず眉を寄せた。相棒とも取れる男が今命の危険を冒して海軍にスパイに入っている。

「…すまねぇ相棒、おれは…」

弟に、会いたい。

ロシナンテはおれの事を兄とはもう思っていないのだろう。だから海軍のスパイとしてここに潜り込むのだ。目の前で父親を殺した(と思っている)男など、兄とは、人間とも思ってはいない筈だ。原作では化物とさえ呼んでいた。そこまで分かっていて尚、弟の安否が気になるし成長した顔が見たい。悪のカリスマが馬鹿げている。こんなところで自分と本物のドンキホーテ・ドフラミンゴの違いを痛感するとは。

ドフラミンゴはどうだったのだろう。ロシナンテと再開した時、彼は涙を流したのだろうか。

「若様!お連れしました!」

その声には、と我に返る。戻ってきたベビー5が客人の前だから気取って丁寧にお辞儀をする。それに苦笑して入るように促せば、彼女は失礼します、とまた畏まって胸を張った。どうぞ、と室内に向かって手を差し出したのに促され、少女に比べてコンパスの長い足が敷居を跨いだ。それを見計らってもう一度礼をした少女はその場を去ってしまう。金髪の、子供の頃と何ら変わりない髪型の男が部屋に入ってくる。おれ、というよりドフラミンゴによく似た体格。あぁ、本当に目つきが悪い。昔はあんなに母親似の優しい目をしていたのに。

「…っ、こんな有り様で申し訳ない、お客人」

一応、相手が名乗るまでは客として扱った方がいいだろう。もしかしたらロシナンテはただここに立ち寄っただけかもしれない。そんな薄ら寒い希望に縋って、床にへたりこんだままの無礼を謝罪した。長い前髪の間から覗いた目が丸くなって、ゆっくりとおれの方に歩み寄ってくる。全く読めない行動に思わず身を固くすれば、ロシナンテは少し膝を曲げておれに手を差し伸べた。その口がゆっくりと分かりやすく、読唇術が出来ないおれにも分かるように動く。

あ、に、う、え。

「……っ」

あぁ、酷い男だ。そんな風に弟を名乗るなんて。

「…ろ、しー…」

呼べば、じわり、とその顔が歪んだ。気道が詰まったように呼吸がままならない。目頭が熱くなってゆらゆらと景色が歪む。は、と浅い息を漏らせば、目尻から一筋涙が伝ったのがわかった。クリアになった視界でロシナンテがぎょっとしているのが分かる。おれが手を伸ばすことが出来ないと判断したらしく助け起こそうと近づいて来たロシナンテの胸板に、とん、とほんとうに軽く拳を打ち付ける。

「ばかやろう、おまえは心の準備をしてきたかも知れないけどな、おれは今日突然生き別れたおとうとが訪ねてきたんだからな、ばかやろう、本当に」

大きくなったな。その言葉は弟の逞しい腕に抱き起こされて溢れ落ちることはなかった。先程まで座っていた椅子に運ばれて、優しく降ろされる。裏切るくせに、いくらおれを兄と呼んだって最後はここからいなくなるくせに。そんなに本音を押し殺して泣くおれの背中を、見ない間に大きく成長した弟の手のひらが宥めるように撫でていた。分かっている。これがどれだけ馬鹿な事か。それでもほとんど知らない男に成り下がった弟の背中に逃がさないように手を回して、今はただ泣いた。

おれは未来を知っているのに、目先の餌につられて回避できる悲劇に手を伸ばした愚かな男だ。









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