Fxxk you bitch!!!!
We begin our journey together!




※ハッピーエンド後


ぴぴぴ、と耳元で鳴ったけたたましい電子音が、ローの眠りを妨げた。ばし、と平手で音源を殴りつけると、運良くアラームを切るボタンに触れたのか音が途切れる。殆ど目を閉じたまま、ローはゆっくりと寝返りを打った。

ローにとって初めての一人暮らしを始めたのは一ヶ月前。大学には実家から通っていたし、就職をしてから最近までは職場から近くの親戚の家に居候していた。家に人の気配はないし、朝温かい食事がテーブルに並んでいることもない。洗濯が干されていることもないし、ましてや寝坊したって気に掛けてくれる人もいないのだ。

ゆっくりと、目眩が起きないように体を起こす。低血圧は相変わらずで、かと言ってそれに甘えるわけに行かないのが社会人というものだった。

それにしても、と、まだ開き切らない目を擦りながら携帯電話に視線を向ける。今日は珍しく、夜中に招集命令がなかった。医学部を卒業した後、研修医を経て外科医になったローがゆっくりと休日を過ごせる、それどころか眠れることは珍しく、今日はその稀有な一日になるかもしれない。都会と言えど医師不足は深刻である。

そんなローの現状を見かねて、親戚のドンキホーテ家から居候の話が出ていた。のだが、今の所丁重にお断りしてある。誰もいない家の方がゆっくりと眠れるし、何よりベビー5のお小言を聞かなくて済むのなら多少の一人暮らしの不便さなど何のその、である。

ローより年下のはずの彼女は、たまに彼の母親のようなことを口走る節があるからだ。勿論それが悪いこととは言わない。世話好きな人間が好きな人間もいるだろうし。そういえばベビー5は近々結婚が決まったとか決まっていないとか。昔はうるさいくせに睨みつけるとすぐ泣くちんちくりんだったが、時の流れとは不思議なものである。

ベッドから立ち上がって、カーテンを左右に開ける。ベランダに続くサッシ窓から差し込んだ朝日を頭から浴びて無理矢理に目をこじ開けた。朝に弱いローは、こうでもしないとまたすぐに微睡みの世界へと戻ってしまう。ふあ、と一つ控えめな欠伸をして、ローは枕元に置かれた携帯電話を手に取った。

少し遅目の朝食は簡単なものだ。熱湯を入れて混ぜるだけで出来るインスタントの味噌汁と、タッパーに入れられていた肉じゃがをレンジで温めたもの。それと朝に炊き上がるように設定していた白米を茶碗によそって、それで終わり。二十代の男の朝飯がこの量でいいのか、とうるさい親戚のうちの誰かが見たらそう言ってくるだろうが、ひとり暮らしの朝食なんてどこの家もこんなものだろう。

歯を磨いて、着替えをして。簡単にラフな服装をすることに決めて、気候に合わせて薄手のパーカーを羽織った。今日は折角の休み。家でゆっくりしたいのはやまやまだが、ローには外に出る用事があった。もうすぐインスタントの味噌汁が切れる。パン食を好まないローにとって、たとえ出来合いのものであろうと和食は生命線だ。

ティッシュペーパーが切れている。のと、ここ数日の食料を買い込まなければならない。それほど自炊をするわけでもないので野菜とか肉とかよりは温めれば直ぐに食べられる冷凍食品だったり、カップ麺などのインスタント食品の方だ。買うものはそれだけだったか、と確認しながらボディバッグを引っ掴んだ。

もう二十代も半ばに差し掛かると、若者の定義の崖っぷちに追いやられ始める。元々ロー自体が見るからにエネルギッシュと言うわけでもないし、世間的に言えばまだ若いと言えるのにふとした瞬間に「ああ、大人になったな」と思ってしまうのだ。目まぐるしく過ぎていく日々に揉みくちゃにされていたら、いつの間にかローの目の下の隈はこびりついて取れなくなっていた。

もしも昔に戻れるならばあの頃がいい、と革靴を下駄箱から出す。ぽい、と玄関に投げ出すように置いて、そのまま足を突っ込む。自分で選んだのは確かだが、いつ呼び出されて休みが潰れるかも分からない職業だ。だったら、そう、一番色濃く印象に残っている、大学生に戻りたいと思うのは不思議なことではないだろう。

今日の外出だって、友人との約束やデートだったらどんなに良かったかと思う。けれど平日に休みを取っている友人などローにはいない。ペンギンもシャチも土日が休みだし、そもそもロー自身の休みが覚束ないのだから約束をしただけ相手の有給休暇を無駄に使わせてしまうことにもなる。最近はめっきり、彼らが好き勝手訪ねてくる以外は顔を合わせていないのが現状である。

もう一人、頭に浮かぶ人物がいる、ことにはいる。大学生時代に戻りたいとローに思わせるその人物は、ああ、長いこと名前を呼んでいない気がした。

がちゃ、と扉を押し開ける。カーテンの隙間から差し込んでいた光と同じものの筈なのに目が眩んで、ローは思わず掌を目の前に翳した。昼近くの外の光を直視するのは久し振りの事だ。明るさに慣れようと目を瞬かせたローは、突然左腕を引かれて咄嗟にそちらを振り返った。

「っ、」

そこにいたのは、丁度今頭を過ぎった人物。思い描いた姿より幾分かだらしなく、萎びた花のような印象を受ける。どうやら彼は寝起きのようで、眠そうな目を瞬いてからローの肩に額を押し付けるようにした。さら、とモトイの髪がローの首を擽る。

「はよ…」

「モトイ、寝坊か?仕事は…」

さっきまで、久しく名前を呼んでいない、なんて思っていたからか、不必要に男の名前を口にした。身体に染み込んだように馴染みある名前に、モトイは「なに」と眠そうな返事をしてきて、思わずふ、と力が抜ける。平素ならモトイは仕事だったはずだ。甘えるような仕草のモトイの髪にするりと指を通して尋ねると、男はふぁ、と欠伸を噛み殺しながら顔を上げた。

「有休…ロー、どこか行くの?」

「買い物だ…あぁ、昨日の肉じゃがの入れ物」

朝食の肉じゃがは、ローが仕事の間にモトイが冷蔵庫に入れていたものだ。お互いの部屋の合鍵は、揃いのキーケースに付いているから、それならもう同居してしまえばいいと思わないでもない。ローの仕事が忙しく、互いの家に、少なくともモトイの家に挨拶に行ける時間を作れるようになるまでは、とローが同棲を保留にしているのだ。そんな恋人の家の隣にある日唐突に引っ越してきた可愛い男は、寝癖のついた髪をかき揚げながら眠そうに目を擦った。

「夜でいいよ、おれも買い物いく…」

ぱち、と目を開いたモトイが、二度ほど瞬きをする。それからローの足元から頭上の帽子までをざっと見て、自分の部屋着に視線を落とした。上着を羽織ってギリギリ深夜のコンビニに行けるかどうか、そんな格好を見下ろして苦笑したモトイは、少し気恥ずかしそうにローを見上げてから笑った。

「着替えて来るから、待ってて」

「…仕方ねぇな」

そう答えると、モトイが一つ頷いてくるりと踵を返す。部屋に戻るために一歩踏み出したモトイが、けれどぐっと足を止めて、振り返ってぎゅ、とローをハグしてから満足そうに自室に引っ込んで行く。ご機嫌取りか。ただの食事の買い物だというのに忠実なことだ。モトイの部屋とローの部屋、二つの扉の真ん中の壁に背中を預けたローは、急いでどこかをぶつけたのか少しだけ開いたドアの隙間から漏れ聞こえた「いてっ」という声に、思わず口元を緩ませた。今日はいい休みになりそうだ。






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