企画


俺くらいの公僕になると、虫の知らせというか何というか、電話が鳴る気配というのを感じ取れることが稀にある。しかも、大抵掛かってきてほしくない時に。

アラームが鳴った訳でもないのにふと目が覚める。カーテンの隙間から差し込む光の淡さが、まだ日の出から間もない時間であることを物語っていた。今日は休みだ。だというのに定刻に勝手に目が覚めるよう染み付いた、その自分の体内時計の忠実さが誇らしいような哀しいような、思わず苦い顔をしてしまった。

今何時か、と充電器に挿しっぱなしのスマートフォンを手に取る。手帳型のそれの肌触りがいつもと何となく違うような気がして半開きの目を擦った。よく見ると、デザインからして俺の隣で寝こけている恋人のものだ。まあ時間を確認するだけなら、とサイドボタンに指を掛けると、ボタンを押す前に画面が点灯した。視界に飛び込んできた着信画面。

「っ、うっ…!?」

思わず漏れ出そうになった声を押し殺して、呼び出し音が鳴る前に画面をスワイプする。極力音を立てないように布団から這い出ながら、そっと耳に電話を当てる。ちら、と寝ている男、風見裕也の顔を見やるが、俺が動いたことに気が付いた様子はなかった。ここ最近仕事も立て込んでいたことだし、前夜のこともあって眠りが深くなっているのだろう。裸足のまま寝室の外に出ると、電話口では何度めかの呼び掛けが成されていた。

「もしもし…飛田さん?起きていますか?」

いや起きてないかもしれないなと思う時間に電話してくるのは止めろください。電話を受ける前に俺の動体視力が捉えた相手の名前は"安室透"で、これは俺達の上司の世を忍ぶ姿である。公衆電話ではなく"安室透"から掛かってきた上で、相手が裕也の偽名である"飛田男六"の名を出すということは、そういうことなのだろう。後ろ手にそっとドアを閉めてから、ようやっとその声に応答した。

「はぁ、飛田なら隣で寝てますけど…あ、いや、寝てます、まだ、はい」

「……」

匂わせっぽくなってしまった失言に、相手から返ってきたのは沈黙だった。三十代に揃って両足突っ込んだ男達の、昨日の乳繰り合いの残骸の話。「何を聞かされているんだ俺は」という遺憾の意が電話から染み出している。重苦しい沈黙に耐えられなくなって、思わずこちらから「どうされたんです」と事情を尋ねると、深い深い溜め息とともに飛田男六経由で風見裕也に降って湧いた仕事の命が下された。重要度で言ったらそこそこ。うん、いけなくはないだろう。顎に指を這わせて少し考えて、電話口の上司に向かって言った。

「…分かりました、でしたら、俺が代わりに」







顔に日光が当たる。目を焼くような光が寝起きの目には余りに眩しくて、逃げるように少し身動いだ。身体の前面に触れる、布団ではない布の感触がある。名前だ。一緒に寄り添って眠りに就いた男に擦り寄るように布団に顔を埋めて、その胴に腕を回した。途端に、ぽすん、と予想以上に沈む腕。ふと目を開けて、それがどうやらクッションだったことを確認してからたっぷり五秒。隣にいるはずの恋人の姿がないという状況を理解するのに、それだけの時間を要した。

「…名前…?」

身体を起こしてもその姿が見えなかったので、名前を呼んで寝室を見回す。無造作に椅子の背もたれに掛けられていたはずの、名前のスーツがない。仕事か。否、今日は自分と同じで休みだった筈だ。ちゃんと前日に仕事を片付けてきたと言っていた筈だし、公安関連の呼び出しなら自分にも連絡が来て然るべきである。電話が鳴ったのなら目が覚めないはずが無いし、それなら、何故。そこまで寝起きの頭が回って、ふと脱力感に襲われる。けれど、腹の中は氷を押し込まれたように冷たい確信に満ちていた。飲み込めなかったそれが、ぽろりと情けない声でもって零れ落ちる。

「帰った、のか」

自分の耳に届いた呟きに、妙に納得してしまう。それはそうだ、久し振りの揃いの休みに半日近く寝こけるような恋人なんて、呆れられても仕方がないだろう。自分の体温で温かいままの布団に埋もれたまま、茫然と半開きの寝室の扉を見つめる。その向こうからただの一つも聞こえない生活音が、名前がもうこの部屋にはいないことを表していた。

そういえば、最後に一緒に目覚めたのはいつだっただろうか。組織関連の案件は自分にしか連絡が来ない。互いに特殊な仕事だという理解があるものの、自分の案件は内容を明かせないものが多い。二人で合わせて休みを取ったとしても、自分だけ呼び出されて名前が寝ている間に部屋を出ることも多かった。この仕事についていれば当然のことだけれど、恋人としては、それはどうなのか。

目が覚めたらもう隣にいない男を、無愛想で無骨な男を、触れたところで柔らかい訳でもない男を、仕事柄努めて目立たず地味でいる事を課されているなんの面白みもない無味無臭の男を、一体どうして愛し続けられると言うのだろう。それでも当たり前のように同じ気持ちを通わせて、そうしてこれから先もそうだと思い込んでいた自分のような傲慢な男を、どうして。そこまで自分を追い詰めるように並べ立てる。欠片も否定出来ないそれらに血の気が引いて、思わず胃の辺りを右手で撫で擦った。

謝らなければ。謝って、それで、どうする。自分の仕事量はこれからも変わらないだろう。それがどうという話ではない。職務上必要とされる事は誇れることであるし、他の同僚に振れない仕事があるのも立場を考えると仕方がないことである。勿論名前を含めた同僚も皆優秀ではあるが、機密事項は尚の事、かと言って誰でも出来る雑用だけ押し付けるのも忍びない。だから、変われない。風見裕也が、名字名前一人のためだけに変わることは出来ない。けれど。

ずり落ちた布団を押し退ける。ひた、と裸足の足が音もなく冷たい床を踏み締めた。薄い部屋着では肌寒い。寝る前にこんなものを着た記憶はなかったのだけれど、だとすれば自分にそんな風に甲斐甲斐しく世話を焼く人間なんて一人しかいない。唇を噛んで、傍らのスマートフォンだけ握り締める。電話を掛けるか迷って、それより先に寝室を飛び出した。

名前の家はここより本庁に近くて、なのに休みの度にこちらの家に帰ってくる。微々たる差ではあるが自分より少し自由に出来る時間の多い名前は、ここに来る度少しずつ掃除や洗濯をして、そうやって、施すだけ施して、与えるだけ与えて、当たり前のような顔をしている。名前はそういう男だった。今更そんなことに気が付いて、此方はその献身をそのまま返すことは出来ないことにも気が付いて、不器用さに辟易とする。返せないのに、まだほしいと思っていることにも。

手頃な所にあった上着を掴んで、小脇に抱えて玄関に向かう。行き先は、どうする、名前の家だろうか。ここを出ていった場合に彼が行きそうな場所にいくつか当たりを付けて、ふるい落として、またいくつか当たりを付けて。そうしながらも、やはり、とスマートフォンの電話帳を開いた。少しでも時間が惜しくて、けれど電話を掛けるのも憚られて、途方に暮れたような思いのまま玄関の扉を雑に押し開けた。筈だった。

「お!?…どしたどした、買い物か?」

ばん、という音と共に扉が何かに衝突する。顔を上げると、片手で咄嗟に玄関のドアを受け止めたらしい名前がひょこりと顔を出した。その拍子に、彼の手の中のキーケースの鍵達がしゃらりと音を立てる。瞠目してその顔から目を離せずにいると、不思議そうな顔をした男が首を傾げた。震える自分の手が、意思を伴わないまま名前の服に伸びてその脇腹辺りを握り締める。捕まえたスーツは、見覚えのある深い緑色だった。俺の手に気が付いた名前が下に視線を向けてから、至極今更な事後報告をした。

「あ、すまん、勝手にスーツ借りた」

似合うもんだろ、と襟を正して見せながら、名前が呑気に笑う。それはそうである。体型は二人ともほぼ同じだし、名前のスーツ姿は見慣れている。色こそいつもと違うが似合っている。怒っている様子はない。その笑顔に、ぐるぐると頭の中を駆け回っていた最悪が端から蹴散らされていくのを感じて、ようやっと知らずに胸に詰まっていたような空気を追い出す事ができた。

「……そう、か…いや、いい」

覚束ない返事をして玄関に引っ込むと、名前が「外出ないのか?」と尋ねてくる。あれだけの勢いで扉を開けたのだから、そう思われるのは尤もだ。けれど名前が帰ってきたので、自分が外に出る用事はなくなってしまった。「いや、」と否定すると、続いて部屋に戻って来た名前が、特に気にした様子もなく呑気に濃緑の上着を脱ぐ。

「俺のスーツ、シワがすごくてな…帰りがけにクリーニングに出して来たよ」

へらへらと笑う名前が、そう語りながら脱いだ上着を椅子の背凭れに掛ける。そうだ、彼はいつも脱いだ服をそうやって置いておくから、だからそこに何も掛かっていないと、いつの間にか物足りない気持ちになってしまっていた。職場のデスク、名前の座る椅子にもジャケットが無造作に掛けられていて、彼が席を外していても庁内に居ることは分かるようになっている。己の持ち物には無頓着な男が、此方に対しては心を砕く。不意にむず痒さが込み上げて、それを隠すように名前をきっと睨み付けた。

「だからいつもハンガーに掛けろと言ってるだろう…!」

「ごめんて、そんな怒る?」

若干気圧されながらスーツをハンガーに掛けた名前が、そのままスラックスも脱いだ。ハンガーに掛けられたいつものスーツと、ワイシャツと下着姿の気の抜けた男の姿。何もかも戻って来たのを見止めてやっと肩の力を抜くと、落胆されたと思ったのか肩を竦めた名前が、仕事用に整えていた髪をくしゃりと崩した。

「悪かったよ…そうだ、雑用くらいになら俺も使えると認めて貰ったみたいだし、支障がなさそうなやつは今後もう少し…"飛田雄五"の方に振ってくれ」

俄に近付いてきた名前が、手の中のスマートフォンの画面を二、三度操作した。つられて視線を落とすと、寝ていたはずの時間に自分と"安室透"との会話履歴がある。目を丸くして名前の顔を見上げると、少しきまり悪そうな顔をした名前が洗面所に向かって踵を返した。手を洗いに行くらしい。成る程目の前の男が出掛けた理由になんとなく見当がついて、けれどその中にあった耳慣れない男の名前を繰り返すように呼ぶ。

「飛田雄五…って、誰だ」

飛田、自分の偽名と同じ名字。凡その予想をつけた自分に向かって、名前は悪戯っぽく笑って言った。

「六時間前に生まれた飛田男六の兄貴!」

突拍子もない言い分に、思わずガクリと肩を落とす。流石に今の時代に六人兄弟は目立ち過ぎやしないか。それに自分等は同い年の筈である。何より、兄弟なら外に出る時は不用意に近づけないな、なんて、浮かんだ色惚けた考えを振り払うように首を横に振った。






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