企画


「うわあァァアァアジャネットォォオォオ!!?」

突然、空間を切り裂く悲痛な絶叫が深海を進むポーラータング号に響き渡る。何だ何だと声の発生源である食堂に続々と集まる野次馬クルー達の視界に飛び込んできたのは、膝をついてこの世の終わりのようにがっくりと項垂れる名前と、それを前にしてむっつりと不満げに腕を組む船長だった。

「ジャネット…あ、う、嘘だ…返事してよジャネット…!」

「ぬいぐるみは元々返事しねェだろ」

全財産カジノでスッた人のような絶望顔で蹲る名前の前には、奴がいつも大事そう、を通り越して愛おしそうに抱き締めている猫のぬいぐるみがある。二メートル近い、大の男が、である。隣で一緒にその様子をを見ていたシャチがうわ、と顔を顰めた。

「…あのぬいぐるみ絡みの名前って、正直メンドクセェよな、ペンギン」

「黙ってたほうが身の為だと思うぞ」

シャチの言うぬいぐるみをちら、と見遣って思わず溜め息が出る。クタッとしていて生地も脆くなっていたようなので何度か捨てるように言ったのだが、本人は断固として首を縦に振らなかった。そして今、片腕の付け根が破けて綿が出ているのと、船長と対峙しているのを見ると、どうやらあいつにトドメを刺したのは船長のようだ。ぐ、と床の上で固く握り拳を作った名前は、顔を上げて船長に向かって声を荒げた。

「船長ひどい!ジャネットを傷付けておいてよくそんなことが言えるね!」

「…おれは悪くねェ」

「よく言うよ!前々から腕は弱ってたのに!それを、それをあんな…!」

顔を上げて船長を睨みつけていた名前は、少し言葉に詰まってから顔を歪めて、それから両手で顔を庇って子供のようにわっと泣き出した。火が着いたように、とはうまく言ったものだ。大柄なだけに声量も凄い。苛々と部屋中に響き渡るほどに盛大に舌打ちをした船長は、額に青筋を立てたまま強めの語気で言った。

「いい機会だ、ぬいぐるみ遊びは卒業しろ」

それから話は終わりだ、とでも言うように踵を返す船長。前々から船長が名前のぬいぐるみ依存にやきもきしていたのは知っていた。名前にとって、何につけてもあのぬいぐるみが一番で、飯を食うときも寝る時も風呂に入るとき、には流石に着替えと一緒に外でお留守番だが、目の届く所にないと気が済まないという。船長も初めは無理に引き剥がす必要はないと言っていたのだが、どうやら最近事情が変わったらしい。

わんわんと大声で泣いていた名前は、仕方ないとぼやきつつも背中を擦るシャチのお陰でなんとか呼吸を整えていた。シャチも名前のブランケット症候群に共感をしないまでも、理解はしているからだ。物腰や言葉遣いの柔らかさから子供っぽく思われがちな名前だが、普段は気のいい仲間なので面倒見のいいシャチも心配なのだろう。まだぽろぽろと涙を零してはいるが落ち着いた様子の名前は、じと、と船長を睨み付けて。

「せんぢょうのせいだ、船長なんて…」

船長なんて、きらい。そうぽつりと、噛みしめるように言った。

ぴたり、と船長の歩みが止まる。名前の腕がそっと腕の千切れたぬいぐるみを抱き上げるのを見送って、シャチは災難に巻き込まれないようにそっと三歩後退った。大切そうにぎゅう、とぬいぐるみを抱き締める名前を振り返った船長は、悲愴な様子の名前を見て事の重大さに気が付いたようだ。

名前のぬいぐるみの件については、見るからに厄介事なので誰も殆ど触れたことがない。ぬいぐるみに話し掛ける名前もいつもの事と流してきたし、あのぬいぐるみをいつから持ち歩いているのかだとか、そういった昔話も振ったことはない、だろう、おれ以外は。あれは名前の母親の形見なのだという。あれは「ぬいぐるみを一番に構うのが気に食わない」なんていう理由で攻撃していいものではないのだ。大人気ない船長に思わず溜め息が一つ漏れた。

ぱたぱた、と名前の涙がぬいぐるみに落ちる。ぐ、と真一文字に引き結ばれた唇は、いつもの綿菓子のような柔らかい雰囲気をしている名前からすると信じられない角度だ。この男はこんなふうに静かに泣くのか、と最早関心すらするおれの目の前で明らかに船長が狼狽えた。

「…おい、大人が泣くんじゃねェ」

どう声を掛けたらいいのか、恐らく分かりかねた船長がやっと口を開く。この人もこの人で喧嘩らしい喧嘩をしたことがないのだろう。普段ハートのクルーとちょっとした食い違いがあっても船長が謝ることは無い。それにおれたちも何だかんだ「まあ船長だしな」と彼の人柄を理解して折れる部分があるから、ここまで悲惨な事態に発展したのは初めてだ。殆ど真顔に近い感情の読めない表情で、名前は船長からそっと視線を外した。

「自分のこと棚に上げておれのことばっかり怒る…そういう人嫌い」

「それはお前が」

「言い訳ばっかりの人も嫌い、大嫌い」

名前に反論しようとした船長の言葉が遮られたのを見て、思わずぞっとする。船長もまさかこんな事になるだなんて思ってもいなかったはずだ。横でシャチが慄いている気配を感じるが、生憎奴の想像通り、キレた船長が名前をバラバラにするには至らない。そうなるには船長が名前を好きすぎるし、名前にとってぬいぐるみが大切すぎる。

途方に暮れたような顔をした船長がおれたち野次馬の方をちらりと見る。てっきり出歯亀を怒られるかと思っていたのだが、藁にも縋りたい思いのようだ。おれが謝れ、という気持ちを込めて一つ頷けば、船長は眉間に皺を寄せて名前の前にしゃがみこんだ。

「…分かった、それを直せばいいんだろう、だから大嫌いはやめろ」

船長、そういう問題じゃないです。思わずそう言ってしまいそうになって口を抑える。まずは謝るんだろ事情はあれだが子供の喧嘩と同じなのだから。名前も怪訝そうに船長を見上げてから、近年稀に見る心底嫌そうな顔で口を開いた。嫌いな食べ物を見るときの顔だ。

「嫌いなものに嫌いって言って何が悪いの」

チェックメイト。さ、と青ざめた船長の唇が何か言いたげに震えたが、素朴な疑問、という目をした名前に押し黙って、この世の終わりのような顔で絞り出すように言った。

「…わ…る、かった」

どよ、と野次馬がざわつく。船長が謝った…とシャチも思わず呟いていた。が、おれとしては当然だと思う、あんなのただの惚れた弱みだ。強張った表情をしていた名前は、船長の弱々しい謝罪を流石に気の毒に思ったのか、少し考える素振りを見せてへにゃり、と泣き笑いをした。

「船長、ジャネットを治してくれるの?」

「ああ」

「…ありがとう、おれもごめんね」

「…いや、いい」

船長が裁縫など、一瞬結びつかないように思える。が、背後のクルーたちの辺りから聞こえる「縫合…」「手術…」という言葉からやっと納得がいった。あのぬいぐるみはちゃんと直るだろう。今のやり取りで忘れかけていたがあの人は一応優秀な外科医だ。

船長が恐る恐る名前の腕からぬいぐるみを抜き取って立ち上がった。目を丸くした名前は船長、否、ぬいぐるみの跡を追うようにすっと立ち上がり、少し上から船長を見下ろす。部屋に行くまでの間にどの辺りから縫おうかと観察したかったのだろう、無意識にぬいぐるみを庇うように名前から遠ざけた船長が、奴の顔を見上げた。

「おい、邪魔をするな…問診中だ」

苦し紛れにそう言った船長に、横のシャチがぶふ、と吹き出した。こいつは後でバラバラにされて船中に散らばることになるだろう。おれは絶対に探さないからな。船長の言葉に、まだうるうるとした名前の目に子供のような光が宿って、花が咲くように笑った。

「へへ!よかったねジャネット!」

それから自分とほぼ同じ身長の船長を軽々と抱き上げ、ぬいぐるみが潰れないよう横抱きにする。しれっとそのまま食堂を出ていこうとおれたちに背中を向けた名前の後ろ姿から、船長の長い足がばたばたと暴れているのがはみ出ていた。

「っ、おい!おれはぬいぐるみじゃねェぞ!」

「え?ジャネットは船長が持ってるじゃない、じゃあおれは船長を持つしかないでしょ」

「…!?」

当然のことのように言う名前に、船長が言葉を失う。正直クルーたちは名前が船長をお姫様だっこしたあたりから水を打ったように静かだ。ぴたり、と船長の足が空を蹴り上げたまま止まり、少しの間を置いてから大人しくだらん、と名前に体重を預けた。

「…それもそうだな」

どれがどうなんだ。ね!と弾んだ声で名前が声を上げて、軽い足取りで食堂を出ていく。船長の部屋まで運んで、そのままぬいぐるみを直してもらうのだろう。緊張が解けたらしいシャチがはあ、と溜め息を吐いて肩の力を抜いた。お前さっき笑ってたけどな。

それから暫く。無事に怪我を治療してもらったぬいぐるみに対する名前の依存癖はもちろん治っていない。と言うか、今はぬいぐるみを持った船長への依存癖、とでも言うべきだろうか。船長も自分に一番に構ってくる不慣れな様子ではあるが、何だかんだ幸せそうだし、そのまま収まるところに収まれば良いのでは、と、おれは思うのだ。

ちなみにシャチはバラバラにされて各部屋に一パーツずつ散らばされ、結局クルー総出で探す事になった。余計なことをするから泣きを見るのに、まったく、どいつもこいつも懲りないのである。






緋羅様、リクエストありがとうございました!





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