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手を振り払わなかった理由も、こうしてなまえの言うことに素直に従っている理由も、それは全部僕自身の行動であるのに全く理解できなかった。
いつもみたいに暴言を吐いて、泣かせるつもりもないけど、クソ松の如くへらへらと仲良くなれあうつもりもない。でも、なまえが海を見に行きたいというから、僕は謎の気持ちを抱えたまま近くの店でレンタカーを借りた。
運よく車が残っていて、すぐに借りることができた。ナビで行先を決める。

「随分遠いけど」
「いいの」
「日が暮れてから着くかも」
「大丈夫」
「クソ寒いのに?」
「うん」

どうやら断固として意志を変えるつもりはないらしい。
まぁいずれにせよ、僕があそこでなまえと会わなかったとしても、家に帰って大した意味もなく時間だけを食いつぶすだけだったし。明日も、明後日も、どうせすることもない。
ナビで行先を決めてから、エンジンをかける。




予定では二時間ほどで着くとなっていたけれど、そんなにかからなさそうだ。それでよかった、こんなクソ寒くて真っ暗な中海を見るなんて嫌だ。死にに行くわけじゃあるまいし。そんなことを考えている僕とは正反対になまえは気分を良さそうにして、流れてくるラジオを聞いていた。初めは全く話さなかったものの、少しづつ時間が経つにつれて、「私、この曲好きなの」とか、リスナーの体験談を募集する企画を聞いては笑っていたりした。うつらうつらと船を漕いでいたときもあったものの、今は嬉しそうに外の風景を見ていた。
何にも見えないのに。

「一松くん、コーヒー飲まない?」
「……ん」
「お砂糖入ってるほうがいいよね」

ちょっとぬるくなってるかも、そう言ってから横でプルタブを開ける音がした。

「私も甘いほうが好きなんだよね」
「そう」
「あの、駅を少し行ったところのカフェ知ってる?安くて、美味しいんだよ」
「へぇ」
「だから、今度……」

さっきまで馬鹿みたいに話していたくせに、今度、とそう言ってからは何も言わなかった。変な奴。
信号に差し掛かったところで、はいと少しぬるくなったコーヒーを渡される。ありがとう、と言おうと思ったけどどうにも言葉が突っかかって出てこなかった。結局「ん」、と不愛想な返事をしてそれを受け取る。
ぬるくなっているし、砂糖だけじゃなくてミルクも入っていた。
自分で話を振った癖して、でもそれはなまえにとって相当堪えたようで、それからはなまえが好きだと言ったアーティストの曲が流れても、何も言わないままで、じっと外を眺めていた。

そんな、妙な時間を過ごして少し経った頃、やっと目的地に着く。案の定、日は暮れかかっていて、人なんて誰一人としていなかった。
少しだけ窓を開けると冷たい風が吹いて、思わず顔をしかめた。

「ちょっとだけ、歩かない?」
「歩かない」
「……そっか」
「行かないの」
「……行かない」

じゃあ何のためにここまで来たんだよ、とつっこみたくなった。でもよくよく考えてみれば、これは僕がなまえにどうにかしてやろうと思ってやったことじゃなくて、今日も、明日も明後日もすることのない自分のためにやったことだ。
暇つぶしなんだから、こいつがどうしようと僕には関係のない話。
ふぅ、と息をついてから、すっかり空になったコーヒー缶を外に投げつける。どうせ、誰も見ちゃいないんだし、道端に転がってるゴミは僕が投げたものだけじゃない。
なまえは僕の一連の行動を見ていたけど、何も言わなかった。

「……真っ暗で何も見えないけど、楽しい?」
「楽しくない」
「じゃあ、帰っていい?」
「うん」

予想外の答えが返ってきた拍子抜けした。本当にこいつ、何しに来たんだろう。
エンジンをかけようとすれば、ぺちと乾いた音がなってからひんやりと冷たい指先が触れた。
なまえは叉、今にも泣きそうな顔をしてから僕の方を見て何か言いたそうにもごもごと口を動かした。
今日の僕も、なまえも変だ。僕はこんな偽善者みたいななまえに優しくするつもりはないのにこんなことにまで付き合っている。かくいうなまえは、急に海に行きたいだなんて言ってから僕を誘った。いつも泣かされて、酷いことばかりされているのにどうして僕なんて誘ったんだろう。
ぐるぐるとわからないことが頭の中を埋め尽くしていって、少しだけ気分が悪くなった。
何、といつも通りぶっきらぼうの低い声で言えば何かを言いたそうにしている口が小さく開いた。

「きょ、今日はどうして言いたいことがあって」
「……」
「その、ずっと前から言わなきゃって……思ってたんだけど」
「……」
「なかなか言えなくて……。一松くんは、いつも私にいじわる…というか、ちょっとだけ、あたりが強いっていうか……」
「はっきり言えばいいじゃん。意地悪だって」
「……そうじゃない」
「じゃあ何?」

ぎゅ、と強く手を握られる。

「……っ」
「あのね、私はずっと、一松くんのこと」
「うるさい!」

自分でもびっくりするほど大きな声が出た。
何かが無性に怖くなった。先の言葉を聞きたくなかった。なまえが俺のことをどう思っているかなんて関係ないことなのに。どうでもいいのに、いいはずなのに。
荒々しく手を振り払ってから僕はシートベルトを外して車から降りる。それから、反対側の、なまえ側の扉を開けてから、彼女の細い手首を掴んだ。

「降りろ」
「…っちょ、待って」
「降りろって言ってんだよ」

なまえの気持ちなんてどうだっていい、こいつのことなんて関係ない。そう考えてどうにか平常心を保とうとしたけど、無理だった。どきどきと嫌に心臓が跳ねる。
こんな偽善者の、僕らみたいな人間として屑に優しくすることで優越感に浸ってるような奴、どうでもいいのに。なんでもいいのに、なのに僕はさっきの言葉の先を聞けずにいる。
嫌がるなまえを無視して、車から引きずり下ろすようにしてからおろした。それから扉を閉めて、僕はそそくさと運転席に乗る。
助手席に置いてあったなまえのハンドバックを窓から投げれば、なまえの肩に当たってからぼとりと落ちた。なまえは叉、僕に何か言おうとして、でも結局さっきと同じようにして何も言わなかった。
僕はそれを無視して、アクセルを踏んだ。ミラー越しになまえが見える、こっちを見ていたが、それも今の僕には恐ろしくてたまらない。
結局僕があいつから逃げるようにして、スピードを上げた。ほんの少しすれば真っ暗闇しか見えなくて、当然なまえの姿も見えなかった。


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