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あれから、なまえは一度も家にきていない。
僕のせいだということは重々承知しているし、それを責めもしないクソ松にも腹が立った。中途半端な優しさはいつだって残酷で、それは優しさと言うよりかは生ぬるい同情といった感情に近いと思う。
結局どいつもこいつも、優しくしている自分に酔っているだけで僕のことを考えた末での行動ではないのだろう。なまえにひどいことするな、これ以上近寄るなって怒鳴って、いつも僕がしているように叩いたりしてくれれば、僕もやめることができるかもしれない。彼奴もアイツで早くクソ松に、僕がこんなにも酷いことをするからどうにかしてくれ、と一言そう言えばいいのに。きっと馬鹿にしてるんだ、こんなどうしようもない変態で劣等感の塊にそんなことをしてしまえば、きっと、何も残らなくなるからって。

今日も今日とて、馬鹿みたいに天気は晴れていた。うざったいな、なんて考えながら僕はいつもの健康サンダルを履いて、路地裏に行く。
何かあるのか、いつもより人が多いように思えた。混雑している場所はあまり得意じゃない、少しだけ人酔いに悩まされながら僕は、いつもの猫が待っているところへと向かった。
そこはあまり、広くもないし明るくもない。ちょっぴり湿気ているようにも感じるそこは、僕みたいなクズにはぴったりの場所だと思った。
あげようと思って買っておいた煮干しは、あいにくおそ松兄さんに食べられてしまったし、ニートで収入が親からのお小遣いしかない、今時2X歳にもなっても、まともに自分で稼ぐことが出来ない屑なので、どこかで買うようなお金もなかった。じゃれるだけでもいくか、と僕は溜息をついて奥へと進んでいく。

「……あ」

あれ、こんなところいつもなら誰も来ないのに。
先客がいるようだった。僕はチッ、と舌打ちをしてからマスクを更に深くつける。こちら側に背を向けるようにしてかがんでいるその先客は、女の人のようだ。綺麗に手入れされた髪の毛に、よく分からないけど、僕みたいなヨレヨレな服は着ていない。例えるならそう、なまえみたいな……。
あれ。

「なんで、お前…」
「……」
「何しに来たの」

なまえみたいな、と思えば、なまえだった。
僕に気づいた彼女は、こちらに向き直ってから僕に近づいてくる。

「……」
「なに、叉泣かされに来たの」
「……」
「お前も物好きだね、変態なの?」
「……」
「……」

いつもみたいにメソメソ泣いて、逃げればいいのに。
いつもとは明らかに様子が違うなまえを不思議に思いながら、僕は彼女を汚い壁に押し付けた。
よろり、とよろめいて小さく声を漏らすなまえはいつも以上にか弱くて、すぐに壊れてしまいそうだった。
いつだってそんな雰囲気はあった。僕らの愛してやまない、あの幼馴染とは叉違うタイプの女の子だということは理解していた。きっと脆くて、ちょっと手を加えてやればすぐに駄目になってしまいそうな。儚い、というより弱っちい感じ。だから、あのクソ松が気にかけていたという部分もあっただろうし、僕が異様に構うのもそのせいなのかもしれない。
自分の事だけど、自分の感情が何かはよくわかっていない。ここまでして異様になまえを滅茶苦茶にしてしまいたくなるのは何故か、泣かせて困らせたくなるのはどうしてか。考えてみれば、分かっているつもりで何も分かっていなかった。

「なまえ」

名前をよんで、細い手首を片方だけ掴んで壁に押し付ける。なまえは今日も今日とて俯いていて、よく表情がわからない。
あ、少し痩せただろうか。そういうことに関してはトド松じゃあるまいし、疎いけれども、そんな僕でも分かるようにしてやせ細っているように思った。それは本当に体重が減っているのか、彼女の雰囲気がいつもに増して弱々しいからなのか。はたまた両方か。

「なんか喋れよ、用があってわざわざこんなところに来たんでしょ」
「……」
「ねぇ」

何も言わないままの彼奴に腹が立って、前髪を掴んで無理にでもこっちを向かせようとすれば、それを予想していたかのように、バッと顔があげられた。

「元気に、してるの?」
「…誰が」
「……その」
「クソ松?元気なんじゃない?」

ふとした表情がなんとなく思い詰めているような気もしないわけじゃないけど、でも相変わらず痛いしクソだしうざい。何もかわんないんじゃないだろうか、それに彼奴の頭は名前の如くからっぽなので何も分からないに決まってる。
クソ松なら元気だよ、ともう一度言い返せば、あたふたと左右に視線を向けてからもう一度僕の方を見る。

「…何」
「……」
「今日はやけにだんまりだけど、何か言いたいことがあるならはっきり言えば」
「……」
「……」
「……」
「ねぇ」
「一松くん、私と一緒に…!」

逃げてほしいの、そういって掴んでいない方の手で僕の手を握った。
彼女から触れた手は、温かくて柔らかいものだった。僕はびっくりして、慌てて手を引っ込める。
逃げてほしいって何だ、そもそも何から逃げるんだ。僕から逃げるんじゃなくて、僕と逃げるのか。それってなんだかおかしな話だな、と思いながらひっこめられて行き場をなくした彼女を手を見つめる。

「は?僕と?お前何か勘違いしてるんじゃない」
「……そんなことないよ」

振り払われた癖して、でも、もう一度彼女はやんわりと僕の手に触れる。
二度目、僕はそれを振り払わなかった。


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